・第5章:「出征」

第45話:「アルエット王国の内乱」

 エドゥアルドが自国の外交関係を固め、内政に専念していた時、タウゼント帝国の周辺では、大きな変化が起ころうとしていた。


 タウゼント帝国の西の隣国、帝国に匹敵する大国である、アルエット王国。

 そこで年単位で続いて来た内乱に、とうとう終止符が打たれることとなったからだ。


 内乱のきっかけは、国家財政の悪化による重税が続いていたところに、天候不順による農作物の不作が発生し、庶民の暮らしが危機的な状況に陥(おちい)ってしまったことだった。

 民衆は生活苦からの解放を求め、重税の廃止や食料の確保を求めて、アルエット王国の国王に対して暴動を起こしたのだ。


 アルエット王国の王家、ラフィヌモン家は、歴史ある貴族の家柄で、すでに数百年に渡ってアルエット王国を統治してきていた。

 しかし、ここ数十年の間、イーンスラ王国との間に勃発(ぼっぱつ)した海外植民地の利権を巡る戦争や、南の隣国であるフルゴル王国の王位をめぐる干渉戦争に失敗し、国家を疲弊(ひへい)させてしまっていた。


 そこに起った不作に対し、時の国王、フランシス5世は対処に失敗した。

 重税の廃止と食料を求める民衆に対し、フランシス5世は問題を話し合うため庶民の代表者の参加を認めた議会の開催(かいさい)を実施し、問題の解決に努めたのだが、結局財政難から十分な食料の確保ができず、「王はうわべだけ意見を聞き入れたフリをして、実際にはなにもしてくれない」と、民衆からの強い不満を一身に引き受けることとなってしまったからだ。


 ここにさらに、フランシス5世の王妃であるセリア・ラフィヌモンの贅沢(ぜいたく)な暮らしぶりが人々の間で噂となると、民衆の不満は爆発した。

 王政の打倒をうったえる人々は次々と武器を手にし、また、本来は国王を守る側であったはずの軍隊の一部も民衆の側について反乱に加わり、革命の炎はアルエット王国の王都だけではなく、その全土へと拡大したのだ。


 この革命を鎮圧するため、フランシス5世は王都を脱出し、自ら軍を率いて反乱軍と対峙(たいじ)した。

 これに対し、民衆は王都の市街地にバリケードを築くなどして抵抗したが、一部の軍が反乱に加わったとはいえその多くは戦闘経験がなく訓練もしたことのない者ばかりであった反乱軍は、十分な訓練を施された専門の職業軍人たちであった王軍に敗北し、フランシス5世は王都を奪還することに成功した。


 しかし、そこからアルエット王国の内乱は長引いた。

 反乱はすでに王国の全土へと飛び火しており、反乱の中心地であった王都がフランシス5世の手に戻っても、反乱軍は各地で結成されて活動し続けたのだ。


 内乱は当初、王都の奪還に成功したように、フランシス5世の側に有利だった。

 彼の下には訓練され充実した武装を持つ国軍がおり、その多くが銃さえ持たず農具を転用した粗末な武器しか持たない民衆の反乱軍に対し、武力では圧倒していたからだ。


 それでも民衆は戦い続けた。

 フランシス5世は、反乱に加わった者に対し厳罰を加えただけではなく、民衆の怨嗟(えんさ)の的であった重税をさらに加えて、内乱の戦費を確保しようという強硬な政策を実行に移したからだ。


 民衆による反乱軍は、王軍と各地で戦っては敗北をくり返していたが、いつしか戦況は反乱軍の側に有利に傾いて行った。

 民衆の支持を失っていたフランシス5世の王軍には、十分な物資が供給されず、また、兵員の補充もままならならず、消耗し続けていったからだ。

 フランシス5世は外国人の傭兵を雇って兵力不足を補おうとしたが、結局、それも財政難によってうまくいかなかった。


 やがて、アルエット王国内の軍事バランスは民衆の側が逆転して優位に立ち、各地で王軍は敗北を重ねることになった。


 フランシス5世は、王妃セリアの母国である隣国、バ・メール王国の支援も得ながら内戦を継続していたのだが、とうとう力尽き、再び王都は反乱軍のものとなった。


 ヘルデン大陸上に存在する大国の1つの、その王家が民衆に敗北した。

 それだけでも十分に衝撃的な出来事だったが、事態はさらに大きく動いた。


 反乱軍によって王都が再度占領され、フランシス5世をはじめ、ラフィヌモン家の王族が民衆に捕らわれの身となったという報告がヘルデン大陸上をかけめぐった、その数日後。

 アルエット王国の王都において、フランシス5世、そして王妃セリアが、民衆の手によって処刑されたのだ。


 これは、長年にわたって民衆に重税を課し、軍事力で弾圧をくり返して来たフランシス5世と、民衆の困窮(こんきゅう)を気にかけることなく贅沢(ぜいたく)な暮らしを続けていたとされた王妃・セリアに対する憎しみが、民衆の間でふくらみ、爆発した結果だった。


 フランシス5世とセリアの間にはまだ12歳という幼さの息子が残されていたが、彼もまた、民衆の手によって監獄(かんごく)へと入れられてしまった。


 アルエット王国の内乱は、民衆の勝利という形で終わるはずだった。

 しかし、国王フランシス5世と、その王妃セリアを処刑してしまったことで、問題はさらに複雑化することとなった。


 王妃セリアの生家、バ・メール王国を治めるオヌール家の当主、バ・メール国王アンペール2世が、この民衆の仕打ちに対して激しい怒りをあらわにしたからだ。


 処刑された王妃・セリアは、アンペール2世の妹にあたる人物だった。

 兄妹仲は良く、アンペール2世はセリアの要請によってフランシス5世に様々な支援を惜しまずに行ったし、王と王妃が反乱軍に捕らわれたと知った時は、その身の安全を保つために反乱軍に対して多額の身代金の支払いを申し出たほどだった。


 だが、民衆はその程度では止まらなかった。

 彼らは長年にわたって続いて来た弾圧と、ここ数年も続いて来た内乱の責任をフランシス5世と王妃セリアのものとし、2人の処刑を断行したのだ。


 2人の処刑は[ギロチン]と呼ばれる処刑機械を用いて実行され、胴体と永遠に断絶された2人の首が処刑人の手にかかげられた時、集まった民衆は歓呼の声をあげた。


 完全に面目を潰された上に、妹、そして妹の夫を処刑され、その2人の子供まで幽閉されたアンペール2世は、怒った。

 激怒した。


 アンペール2世は民衆の代表者たちによって形作られた議会を中心として国家運営を行おうとする共和制を宣言した民衆に[懲罰(ちょうばつ)]を加えると宣言し、王都を奪還してフランシス5世と王妃セリアの忘れ形見である王子を監獄(かんごく)から救出し、ラフィヌモン家をアルエット王国の王家として復活させることを誓った。


 そして、このアルエット[共和国]に対する懲罰(ちょうばつ)戦争に、タウゼント帝国も無関係ではいられなかった。


 アンペール2世からタウゼント帝国にも懲罰(ちょうばつ)戦争への参戦が要求され、そして、時のタウゼント帝国皇帝、カール11世が、この要求を受諾(じゅだく)したからだ。

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