第38話:「引退:2」

 クラウスと同じく車窓を流れていく景色を眺めていたユリウスは、クラウスが引退するという言葉を聞いて、驚いたような視線を向けていた。


「父上、まだ、お早いのではないでしょうか? 」


 それからユリウスは、少し不安そうな顔でそう言う。


 老境にさしかかっているとはいえ、クラウスはまだ60歳にはなっていない。

 まだまだ身体は元気で馬にも乗れ、意識もしっかりとしていて、持病もない。

 公爵として十分にやって行けるはずだった。


「いいや、わしは、もう、耄碌(もうろく)しておるよ」


 しかし、クラウスの意志は固い様子だった。


「わしは今回、てんで、ダメダメじゃった。

 エドゥアルド公爵のことを見誤って増長し、油断し、まんまと手玉に取られて、囚(とら)われの身となってしまった。


 ユリウス、お主にも、さぞや心配をかけ、迷惑もかけたことじゃろう。

 こんな老人はさっさと引退して、跡継ぎの世話に専念する方が得策だろうて」

「しかし、父上は、見事に我が国の国益を守られました」


 そんなクラウスに、ユリウスは反論する。


「交渉の結果、領土は保全され、むしろ我が国にとって有利な形で定まりました。

 それだけではなく、両国の間で経済協力が結ばれ、強固な同盟関係も得られたではありませんか」


 ノルトハーフェン公国とオストヴィーゼ公国が結んだ盟約は、多岐(たき)に及んだ。


 両国間の商取引を円滑に行うための制度の整備を強化することや、両国の通商を妨げてはならないということ、両国の間で今後、いくつかの物品を一定量以上、安定して供給し合うこと。

 そういった純粋(じゅんすい)に商業的な部分だけではなく、ノルトハーフェン公国はオストヴィーゼ公国に対し、産業の育成や、交易に必要な街道の整備などについて、様々な支援と協力を行うことを約束してもいる。


「じゃから、それはすべて、エドゥアルド公爵の構想に沿ったものなのじゃ」


 エドゥアルドと直接交渉した結果、彼が、その臣下たちに支えられているだけではなく、臣下を使いこなし、そしてエドゥアルド自身も明晰(めいせき)な頭脳を持っていることを実感し、その実力をすっかり認めるようになっていたクラウスは、ユリウスのはげますような言葉にも首を左右に振るだけだった。


「確かに、盟約によって我が国が得るものは、ノルトハーフェン公国よりも大きなものじゃ。

 領土だけではなく、産業育成やインフラを充実させるための支援まで。

 大盤振る舞いじゃ!


 しかしそれでも、結局はノルトハーフェン公国の方がより大きな利益を手にすることになるのじゃ。

 まったく、エドゥアルド公爵はなかなかどうして、若いのに大したお方じゃよ」


 ノルトハーフェン公国の支援によって、オストヴィーゼ公国は発展するだろう。

 従来の農業、畜産だけではなく、近代的な産業も動員し、物資の流通を助ける街道の整備によって、その経済は飛躍するだろう。


 しかし、そうして生産力が向上し、より多くの物資が流通するようになると、ノルトハーフェン公国は大きな利益を手にすることになる。

 なぜなら、オストヴィーゼ公国がより効率的に商品を輸出しようとすればノルトハーフェンの港を利用する他はなく、ノルトハーフェン公国は関税収入によって今までよりも大きな利益を得られるようになるからだ。


 エドゥアルドは、オストヴィーゼ公国に対して関税の優遇措置をとることも約束してくれた。

 しかしそれはオストヴィーゼ公国で生産される商品の輸出や、外国からの輸入の割合でノルトハーフェンの港が果たす役割がさらに強化されるということであり、言いかえれば、ノルトハーフェン公国に対するオストヴィーゼ公国の[依存]が強まるということであった。


「知っておるか? ユリウスよ。

 ノルトハーフェン公国にある最新式の工場は、なんとも、恐ろしいほどに優れたものなのだぞ」

「父上。工場なら、我が国にもありますが? 」

「比較にもならぬよ。

 直接自分の目で見なければ信じることはできんじゃろうが、規模も、設備の充実度合いも、生産の効率も、我が国の工場とはまるでレベルが違うんじゃ」


 ノルトハーフェン公国は、商業と工業の国だった。

 長年、国家の経済基盤となっているその要素を強化するために投資を続けてきたノルトハーフェン公国は、タウゼント帝国でも有数の工業力を有するに至っている。


 もちろん、オストヴィーゼ公国も農業と畜産だけに甘んじるのではなく、自国の産業を育成してきている。

 しかしながら、ノルトハーフェン公国との差は歴然(れきぜん)としたものがあり、クラウスは今回、その差をまざまざと見せつけられてしまった。


「ノルトハーフェン公国は、これからもっと、のびるぞ」


 それは、焦燥とあきらめ、感心とひがみの入り混じった、複雑なニュアンスの言葉だった。


「産業革命などという言葉を聞いたことがあったが、まさに革命が起こっている。

 現在進行形で、起こっておるのじゃ。


 エドゥアルド公爵は、我が国との盟約を利用し、周辺諸侯と外交関係を固め、そして、内政に注力するつもりじゃと言っておった。

 それはつまり、今でもタウゼント帝国の諸侯で最良の工業力を有しているノルトハーフェン公国が、さらにその力をのばすということなのじゃ。


 ユリウスよ。

 我々も、心強い味方ができたと、喜んでばかりもおられんのじゃ。


 うかうかしておると、我が国はやがて、かの国に飲み込まれるか、その陰に隠れて、かすんでしまうだろうよ」


 それは、深刻な危機感の込められた言葉だった。

 そしてクラウスは、「じゃから、わしは引退するのじゃ」と言葉を続けた。


「時代が、移り変わっているのじゃ。

 タウゼント帝国の中で我が国は長く続いてきたが、これまでのようなことを続けていては取り残され、淘汰(とうた)される時代になりつつある。


 そんな、新しい時代には、ユリウス。

 お主のように、若く、[先]を見て、腰をすえてやっていける者こそが、ふさわしい。

 わしのように、目先のことしか見えなくなった、耄碌(もうろく)した老人では、ついて行けんのじゃ。


 そして、ユリウスよ。

 お主は、今回とり結んだ盟約を最大限に活用し、我が国を、ノルトハーフェン公国の影にかすむことのない国家とするのじゃ。


 これからも、かの国と対等な[盟友]でありつづけるために、な」


 そのクラウスの言葉を聞きながら、ユリウスは険しい表情を浮かべていた。


 自分が、公爵となって一国を治めて行かなければならないという、責任。

 大きく変わろうとしている時代の中にあって、人々を導いていかなければならない、責任。

 そして、タウゼント帝国と共に一千年以上も続いて来たオストヴィーゼ公爵家を、これから先の時代の伝えて行かなければならないという、責任。


 それらが重く、ユリウスの両肩にのしかかる。


 しかし、すぐにユリウスは覚悟を固め、真剣な表情でクラウスに向かってうなずいていた。

 ユリウスがそのような責任を果たさなければならないということは、彼がこの世に生を受けた瞬間から決まっていたことで、ユリウスは物心ついた時からずっと、そのことを常に意識しながら生きてきたのだ。


「わかりました、父上。

 私(わたくし)に、すべて、お任せください」


 その力強い言葉に、クラウスは心の底から嬉しそうに双眸(そうぼう)を細めて、何度もうなずくのだった。

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