第13話:「眠れない夜」
メイドとして働くルーシェの目線から見て、ヴァイスシュネーに来てからのエドゥアルドは、その毎日が充実している様子だった。
エドゥアルドはノルトハーフェン公国の公爵として、その統治者として毎日忙しく働いている。
エドゥアルドのサインが必要な書類に何枚も目を通してサインし、公国の政務に関係する様々な役職の人々と直接会って打ち合わせをし、公国の外から訪問して来た使者と面会もする。
エーアリヒとの衝撃的な和解により、エドゥアルドはエーアリヒが構築していた公国の統治体制をそっくりそのまま受け継いだ。
そのことはエドゥアルドが望む公国の改革をより早く、スムーズに進めることに効果があったが、その分エドゥアルドは短期間で様々な判断を行い、指示を下す必要があり、本当に忙しそうだった。
エドゥアルドは、幼いころから[公爵]として育てられて来た。
そして、エドゥアルドが教えられた公爵とは、国民を豊かに安寧に暮らせるようにし、公国が不要な災いを受けないよう、周辺諸侯から十分に尊重され得るように統治を行うための存在だった。
エドゥアルドは、その、[公爵]であろうとしている。
古くから続いて来たものの、現代にはそぐわなくなっていた様々な公国の制度を改革し、公国に新しい風を吹き込み、より活気に満ちた、強い国を作ろうとしている。
エドゥアルドは若く、責任感と自負心のある統治者だった。
だが、それだけではなく、優しい統治者でもあった。
彼が結局エーアリヒと和解したのは、そうすることが自身の公国の統治をもっとも円滑に開始できる方法だという打算もあったのだろうが、自身の統治の始まりを粛清(しゅくせい)によってはじめ、人々を恐怖に陥れたくないという気持ちもあったのだろうと、ルーシェにもわかってきている。
それだけではなく、エドゥアルドはかつてルーシェに約束してくれた通り、スラム街に暮らしているような、取るに足らないような貧民にも目を向けてくれた。
エドゥアルドは今の寒い冬の時期に凍死者が出ることを防ぐため、公爵の命令によって食事を配給することを決めたのだ。
食事の配給は、エドゥアルドが公務として行った祝賀会の実施と合わせて開始されており、スラムの人々に素朴で質素だが暖かなスープ料理であるアイントプフが配られた。
その試みは、これからも続けられていくことが決められている。
そしてエドゥアルドは、ほんの一時の支援だけではなく、自ら望まずにスラムに暮らしている人々のため、職を用意しようと計画している。
もちろん、この弱者救済の政策は、人道的見地から行われた福祉政策としての側面を色濃く持ってはいるものの、エドゥアルドの狙いは別のところにある。
社会的な弱者となり、生産力に乏しいスラム街の人々に職を与え、公国の経済に寄与させようというのが、エドゥアルドの狙いだ。
手始めとして、エドゥアルドは大規模な土木工事を計画させている。
具体的に言うとそれはノルトハーフェン公国内の街道の整備であり、この土木工事によってエドゥアルドは貧民に収入を与え自立した生活を構築する元手とさせるのと同時に、ノルトハーフェン公国の経済の基盤である交易と商業をさらに発展させようと目論んでいるのだ。
多くの肉体労働者を必要とする街道の整備工事であれば、特に特殊な技能を持たないスラム街の人々であっても、体力さえあれば参加しやすいだろうという考えだった。
ルーシェがかつて、エドゥアルドに仕えるメイドとなる前に暮らしていたノルトハーフェンのスラム街に暮らしている人々は、それはもう、酷い人ばかりだった。
たとえば、幼くして身寄りをなくした少女から、唯一の肉親であった母が残してくれたわずかな財産ですらも奪い取り、スラム街の片隅に追いやったほどに。
だが、ルーシェは、彼らの心がさもしく、あさましいのは、彼らの暮らしに余裕がないからだと信じている。
毎日毎日、明日のことではなく、今日のことを心配しながら生きねばならない人々は、自分のことだけで精一杯で、他人のことなど気にかけられない。
それどころか、自分自身や家族のためには、[他人]から奪わなければ、生きていけない。
そんな生活が、人々を[悪人]にする。
中には、根っからの悪人というのもいるのだろう。
ルーシェも、全員が全員、いい人ばかりだとは思っていないが、そうではなく、追い詰められているために自分を優先しなければならない人々には、少なくともその状況から脱するチャンスが与えられて欲しいと願っている。
ルーシェに、そのチャンスが与えられたように。
ルーシェは今、幸せだった。
ヴァイスシュネーへと引っ越して来たルーシェは、それまでのシュペルリング・ヴィラでの暮らしと同じかそれ以上に忙しく、毎日くたくたになってしまう。
だが、それはルーシェにとって、心地よい疲労感だった。
カイとオスカー、2匹の家族がいて、エドゥアルドたちのいる生活。
毎日メイドとして働いて、人々から必要とされる暮らし。
そんな毎日がこれからもずっと続けばいいのにと、そう願わずにはいられない。
「むぅ……、なにか、おかしいです……」
ヴァイスシュネーへと来てから、ルーシェは毎日忙しく働いて、気持ちよくすとんと眠りに落ちる日々だったのだが、エドゥアルドの前で転んでからかわれたその日の夜は、どうにも寝つけなかった。
ルーシェはベッドの中で何度も寝返りをうちながら、少しでも楽な、眠りやすい体勢になろうとしているが、どうにも違和感があって、それが気になって眠れない。
ルーシェのかたわらでは、犬のカイが丸くなって眠っている。
しかし、今晩はいつもならとっくに寝入っている時間になってもまだ起きていて、もぞもぞと布団の中で動いているルーシェのせいで安眠できないらしく、少し困ったような様子だった。
ちなみに、猫のオスカーは、ヴァイスシュネーに巣くうネズミどもを捕捉・撃滅するべく出動中なので、ここにはいない。
カイが迷惑そうにしていることにルーシェは気づいていたが、どうしても違和感が消えず、やはり何度も寝返りを打つ。
眠りたいのに、眠ろうとしているのに、眠れないのだ。
暗闇の中、ルーシェの脳裏に浮かんでくるのは、エドゥアルドの姿だった。
メイドとして仕えるかたわら、間近で見てきたエドゥアルドは、ヴァイスシュネーに来てから本当に充実しているようで、いつも忙しくとも、どこか嬉しそうだった。
そんなエドゥアルドの姿を見ていることが、ルーシェも嬉しくて、お仕事も楽しくて、ここしばらくはいつも、幸福な気持ちで眠りに落ちることができていたのに。
ルーシェが見てきた、エドゥアルドの様々な表情が思い出される。
毎日毎日、公爵としての力量を身につけようと必死に鍛錬をし、本と向かい合っていた、エドゥアルドの真剣な、憂いを帯びた顔。
今の、政務に打ち込む、充実した明るい、自身の責任と向き合うエドゥアルドのたくましい横顔。
そえから、時折、ルーシェのことをからかう、楽しそうな笑った顔。
そして、ごろつきたちに人質にされたルーシェのために激高し、フェヒターと戦ってくれた時の、怒りに燃える顔。
エドゥアルドの、時に年相応の少年っぽさを見せるところや、それでいて、公爵としての責任感を持って人々のために働き、時々ルーシェのためにも真剣になってくれる、頼もしいところ。
これまでに見てきたエドゥアルドの姿が、ルーシェの頭の中に次々とあらわれては消えて行く。
(ぅー……。明日も、私は、笑顔でいたいのに)
自分は、そんなエドゥアルドの、ノルトハーフェン公爵のメイドなのだ。
そう自覚し、自負するルーシェは、明日も、公爵家のメイドとしてふさわしい立ち居振る舞いをし、エドゥアルドが快適でいられるよう、そして、ルーシェが好きな人々が快適でいられるよう、笑顔でいたいと思う。
そのためには、睡眠不足なんて、絶対に良くないのに。
どうしても違和感が消えず、エドゥアルドのことも考えてしまって、目がさえてしまう。
結局ルーシェは、その日はほとんど眠ることができなかった。
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