第3話:「政務」

 ノルトハーフェン公爵、エドゥアルド・フォン・ノルトハーフェンは、ヴァイスシュネーの公爵専用の執務室で、公爵専用のイスに腰かけ、ご満悦だった。


 もう、笑いが止まらない。

 公爵となったものの公国の実権はすべて摂政であるエーアリヒによって掌握され、目の前に暗殺の危機が迫るという状況から逆転を果たし、公国の実権をその手に取り戻すことができたからだ。


 エドゥアルドは、タウゼント帝国の貴族に多いブロンドの髪と、やや灰色がかった碧眼の持ち主で、ツリ目がちで少し小生意気に思える印象の双眸(そうぼう)を持つ。

 その体格はやせ型だったが、彼は実権なき公爵、おかざりの公爵であったころから、いつか自分自身の手で親政を行う日に備えて鍛錬を続けて来たから、その身に着けている衣服の下はしっかりと筋肉がついて引き締まっている。


 エドゥアルドにとって、やることは山積みだった。

 簒奪(さんだつ)の陰謀を目論む一方で、為政者としての仕事をきちんとこなしていたエーアリヒから職務を引き継ぎ、エドゥアルドを中心とする新しい体制を構築しなければならない。


 だが、エドゥアルドはさっそくそれらの仕事にとりかかり、ひとつひとつ、片づけようとしていた。


 滑り出しは、順調だった。

 エーアリヒがあっさりと軍門に下り、公国の政務の機能がわずかな混乱でエドゥアルドの手に入ったというのもあるが、今のエドゥアルドには、優秀な頭脳(ブレーン)がついているというのが大きかった。


「ご機嫌でございますね。公爵殿下」


 サラサラと軽快なペンさばきで書類にサインをしていくエドゥアルドの前で、次の書類の束を手に持っていた男性、ヴィルヘルム・プロフェートが、柔和な笑みを浮かべながら言った。


 別に、彼も嬉しくて笑っているわけではない。

 ヴィルヘルムは常に仮面のように柔和な笑みを浮かべている、底の知れない人物だった。


 ヴィルヘルムは、灰色の瞳にオールバックにした濃い茶色の髪を持つ、長身でハンサムな優男だった。

 年齢は、自称26歳。

 実際そのくらいの若さに見えるが、彼が有する知識や見識は多く深く、エドゥアルドに大切な局面で適切な助言を行う冷静さと明晰な頭脳を持っている。


 最初、エドゥアルドはヴィルヘルムのことを、得体のしれない、うさん臭い奴と思っていた。

 なぜなら、ヴィルヘルムはエーアリヒの推薦(すいせん)で、エドゥアルドの家庭教師として送り込まれて来た人物だったからだ。


 エドゥアルドはヴィルヘルムのことをスパイと疑ったが、実際、ヴィルヘルムはスパイであったらしい。

 しかし、家庭教師としてエドゥアルドの下で働くうちに、エドゥアルドたちに[興味]を持ち、最終的にエドゥアルドのブレーンとして働くことになった人間だった。


「ああ、プロフェート殿。貴殿のおかげで、公国を取り戻せたことだしな」


 エドゥアルドが上機嫌に、冗談めかしながら本心を言うと、ヴィルヘルムは柔和な笑みを崩さないまま肩をすくめてみせる。


「私(わたくし)は、少々、お手伝いをさせていただいただけでございます。

 私(わたくし)などより、殿下のために戦った兵士たちや、あのメイド殿たちの方が、よほど功が多くございます」


 表情こそ変化はなかったが、どうやらヴィルヘルムは謙遜ではなく、本気でそう言っているようだった。


 上機嫌だったエドゥアルドの頭の中に、ちらりと、痛みのようなモノが走る。

 ヴィルヘルムが言うとおり、エドゥアルドがこのイスに座るまでには、実際に血が流されているのだ。


 ルーシェたち公爵家のメイドが懸命に働いてくれたおかげで多くの負傷者が救われたが、中には、助けることのできなかった兵士もいる。


「……せめて、国葬してやることができればな」


 その、自分のために[人が死んだ]という事実に、エドゥアルドは視線を落としながらつぶやいた。


 エドゥアルドのために戦って、死んだ。

 その功績に報いるために、せめて国葬として、人々に戦死者の勇気や献身を明らかなものとしたい。

 それがエドゥアルドの願いだったが、しかし、そうすることはできなかった。


 政治的な理由だった。


 エドゥアルドは、フェヒターという生き証人を得て、反乱の企てが起こったという事実を公国の人々に知らしめ、それによってエーアリヒの逃げ道を奪った。

 エドゥアルドが、エーアリヒが簒奪(さんだつ)の陰謀を企てたという証拠を持っているのだとエーアリヒ自身に理解させることで、もはや抵抗する術がないことを示したのだ。


 それによって、エーアリヒは自ら、エドゥアルドの足元にひざまずいた。


 しかし、人々はまだ、陰謀の全貌(ぜんぼう)を知らない。

 公爵位を巡る簒奪(さんだつ)の陰謀があったことは、エドゥアルドの喧伝によってすでに人々の知るところとなってはいたものの、その陰謀に、誰が、どこまで関わっているのかはまだ知られていない。


 民衆はまだ、陰謀の首魁(しゅかい)がエーアリヒであることを知らなかった。

 そして、そんな状況のままにとどめておくべきだとエドゥアルドに進言したのは、ヴィルヘルムだった。


 もし、エーアリヒを中心に進められていた陰謀を完全に暴き出し、その関係者に処罰を下すとしたら。

 途方もない数の人々がその罪に連坐(れんざ)することになる。


 エーアリヒは簒奪(さんだつ)を成就させるためにさまざまな根回しを行っており、多くの協力者を得ていた。

 その影響力は、ノルトハーフェン公爵家に仕える貴族や、軍の将校、一般の民衆にまで及んでいる。


 もしエドゥアルドがエーアリヒを厳しく断罪すれば、罪に連坐(れんざ)した人々も次々と重い罪に問わねばならないことになる。

 ノルトハーフェン公国に、粛清(しゅくせい)の嵐が吹き荒れることになるのだ。


 貴族や軍の将校を一度に多数欠くことは、エドゥアルドがこれから行う公国の統治を停滞させる恐れのあることだった。

 それになにより、冷徹(れいてつ)な粛清(しゅくせい)は、人々を恐怖させることにもなるだろう。


 人々から恐れられ畏怖(いふ)されることが君主にとって重要になる場合も、確かにある。

 しかしながら、まだエドゥアルドのことを人々がよく知らないうちに粛清(しゅくせい)を断行してしまっては、人々にとって恐怖政治の始まりと受け取られかねなかった。


 エドゥアルドとしても、それは嫌だった。

 人々から尊敬されたいと思ったことはあっても、恐怖されたいと思ったことは、1度だってないのだ。


 それに、粛清(しゅくせい)などということを実行に移せば、エドゥアルドのためにと日夜頑張り続け、圧倒的に不利であったエドゥアルドに利害を超えて味方する人々が生まれるきっかけを作ってくれたとあるメイドが、絶対に泣く。


 だから、エドゥアルドのために命を落とした兵士たちを国葬とし、人々に[真実]を公(おおやけ)に明かすことができない。


 これは、新たな公爵として、エドゥアルドが向き合い、どうにか折り合いをつけながら乗り越えていかなければならないことだった。

 エドゥアルドはもう、実権のない[すずめ公爵]ではなく、ノルトハーフェンという一国の主となったからだ。


※作者注

 スターリンの大粛清みたいなことにならないように、ってことです。

 近年では、イラクみたいに、公職追放を徹底したら行政が回らなくなってかえってどえらいことになったという例もありますので。


 冷徹な判断も必要ではありますが、慎重に考えようというのが今のエドゥアルドたちの状態です。

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