第2話:「引っ越し」

 ノルトハーフェン公爵を継いだエドゥアルドが数年間暮らしていた屋敷、シュペルリング・ヴィラ(すずめ館)は、荒れていた。

 エドゥアルドの命を狙い、フェヒター準男爵が100名を超える私兵集団を率いて攻撃してきたためだ。


 エドゥアルドたちは警護の兵士らと共に館をバリケードなどで要塞化し、フェヒターたちを迎えうって撃破した。

 だが、エドゥアルドはそのまま、公国の首府であるポリティークシュタットへと進撃し、陰謀の中枢であったエーアリヒ準伯爵を降伏させ、そのまま、エーアリヒらによって占拠されていた公爵の本来の居館であるヴァイスシュネーを取り戻してそこにとどまってしまったので、シュペルリング・ヴィラはその主不在で、戦闘によって荒れたままとなっていた。


 バリケードは人出がないので解体されずに残ったままだったし、館のあちこちには戦闘の痕跡が残り、発射された弾丸がめり込んだままになっている。

 幸い火をかけられるようなことはなかったので、建物はほとんどそのまま、掃除と修理をすれば使えそうなくらいの状態だったが、エドゥアルドとフェヒターとの戦いから数日も経っていない現状ではまだ、硝煙のにおいがしてきそうなくらいの雰囲気だった。


 そして、シュペルリング・ヴィラが、ノルトハーフェン公爵家の別荘として作られた当時ののどかな姿を取り戻すことは、当分先になるはずだった。


 なぜなら、エドゥアルドはすでにその居場所を公爵家の本来の居館であるヴァイスシュネーへと移し、そこから公国の親政を行おうとしており、シュペルリング・ヴィラに残っていたエドゥアルドに仕える者たちもみな、引っ越すようにとの命令が来ているからだ。


 シュペルリング・ヴィラは、歴代の公爵たちが公務を離れてリラックスできるように作られた別荘だったから住み心地は良かったのだが、公爵にとってはあくまでそこは[別荘]であり、仮の家だった。

 そして、エドゥアルドが公爵の本来の家であるヴァイスシュネーを手にした以上、ここに戻ってくることは当面、ないのだ。


 ノルトハーフェン公爵家に仕えるメイド、今年13歳か14歳になるはずの少女、ルーシェは、エドゥアルドに言われた通り引越しをするべく、準備で忙しかった。


「んっと、えっと……、これは、どうしましょう? 」


 ルーシェは、その濃い青色の碧眼を楽しそうに輝かせながら、カバンの中に当面の間に必要になりそうな私物を、迷いながら詰め込んでいた。

 ルーシェの瞳の色と同じ、美しい青色のリボンで結ばれた彼女の灰色がかった黒髪が、ひらひらと元気に揺れている。


 ルーシェは、数日前に行われた戦闘で武器を手に取って戦うようなことはできなかったが、負傷者たちの治療のために懸命に働いた。

 その負傷者たちは、公国の実権を取り戻したエドゥアルドによって差し向けられた兵士たちによってポリティークシュタットの軍病院へと搬送されてルーシェの手を離れたものの、ルーシェはその後も、できるだけシュペルリング・ヴィラをきれいにしようと掃除などをして過ごした。


 ここ数日、あまり休めてはいない。

 だが、ルーシェはその疲れをあまり感じさせず、嬉しそうに引っ越しの準備を進めている。


 とにかく、少しでも早く来て、エドゥアルドの手助けをして欲しい。

 そんなふうに言われて嬉しい、というのがルーシェの素直な感想だったが、今の自分には[カバンにどれを詰めて持っていくか、悩むことができる]というのも、嬉しいことだった。


 ルーシェは、ほんの数か月前、公爵家のメイドとして仕えるようになる前には、ノルトハーフェンの街の、スラム街の片隅で暮らしていた。


 ルーシェには、身寄りがなかった。

 女手一つでルーシェを育ててくれていた母親、ウェンディが病で亡くなった後、ルーシェはスラム街で貧しく、食うや食わずの暮らしをしていた。


 住んでいたのは、屋根も壁もない野ざらし同然の場所。

 ルーシェは毎日必死に仕事を探して働いたが、満足するほどに食べられた記憶はない。


 そんなルーシェにとって頼れるのは、2匹の家族だけだった。


 人間では、ない。


 カイと、オスカー。

 公爵家に仕えるようになってから初めて、バーニーズマウンテンドッグという犬種だと判明した犬のカイと、ダークグレーの毛並みに金色の瞳を持つ猫のオスカー。


 つい数か月前のルーシェにとって、大切と言える持ち物は、この2匹の家族と、母親が残してくれたもので唯一残った形見のペンダントだけだった。


 だが、今のルーシェには、カバンにどれを詰め込むのか悩むほどに、持ち物がある。

 ルーシェは確かに疲れてはいたが、その事実を再認識して、たまらなく嬉しい気持ちだった。

 今のルーシェは誰かから必要としてもらえるし、住む場所も、食べる者もある。

 毎日鏡を見ながら、おしゃれに気を使うことだってできるのだ。


 スラム街で人知れず消えて行こうとしていたルーシェを見つけ出してくれたのは、以前からエドゥアルドに仕えていたメイドの、シャルロッテという若い女性だった。


 彼女は凛とすました姿が似合うメイドで、[公爵家にふさわしいメイド]となるようにルーシェを厳しく教育した。

 その教育は徹底したものでルーシェはいつも必死に物事を覚えねばならず、毎日たくさんの仕事で目が回るようだったが、ルーシェは自分が新しく得ることのできた居場所を守るために頑張った。


 そうしてルーシェは、まだまだ未熟なところはあるものの、主であるエドゥアルドや、教育係であるシャルロッテからも、[公爵家の一員]として認められるようになった。


 そんなルーシェの隣で、ベッドに腹ばいになったカイとオスカーが、ルーシェの姿を楽しそうに眺めている。

 2匹はルーシェの嬉しいという気持ちがわかって、一緒に嬉しいと思ってくれている様子だった。


「う~ん……、よしっ! これで、おしまい! 」


 やがてルーシェは荷物の整理を終え、エドゥアルドからもらった大切な青いリボンを最後にカバンの中に詰め込むと、パタンとフタを閉じて少しぎゅーっと押し込み、ガチャリ、としっかり留め具でカバンを閉じた。


 シュペルリング・ヴィラに与えられたルーシェの部屋は、スラム街で暮らしていたころとは比較にならないほど快適で、ルーシェはこの場所が大好きだった。

 ふかふかのベッドに、暖かな布団まである。

 一歩間違えば凍え死にしそうなスラム街での暮らしとは、比べられるはずもない。


 だが、ルーシェはこの部屋を去ることを名残惜しく思いつつも、こだわらなかった。

 なぜなら、今のルーシェは[エドゥアルドに仕えるメイド]であって、自分を[家族]に等しい存在として認め、頼りにしてくれるエドゥアルドの側こそが、ルーシェにとっての[居場所]であるからだった。


 後片づけを済ませて部屋がきれいになったことを確認してうなずいたルーシェは、カバンを手に部屋の扉まで行き、カイとオスカーを呼んで、1人と2匹でその思い出深い部屋を後にする。


「またね! 」


 ルーシェは少しだけ部屋の方を振り返って笑顔を見せると、バタバタと、カバンを手に駆けていった。

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