第41話 聖なるかな

 あのあと、辰馬がシーザリオンの大病院に昏睡入院したのはわずかに2日。目を覚ますなりシーザリオン駐屯軍に動員を発令した。縫合施術は完了しているとはいえルクレツィアの最後の力に操られたラケシスのナイフで深く切り付けられた胸は疼痛を止めておらず、喉笛まで達した傷はときとして呼吸を阻害する。それでも辰馬にはさらに深く軍を進める理由と必要があった。ウェルスの主神、創世の竜女神グロリア・ファル・イーリス。人間を玩弄の道具としか見做さないかの女神を、封印する。


 ウェルスの青き竜帝、ルクレツィアは晦日美咲により女神の洗脳を解かれ、もとの善良質朴な精神を取り戻した。何度も何度も頭を下げる法王に辟易した辰馬は彼女とラケシス、そしてアトロファの三人に諸国行脚の謝罪旅行を勧める。ウェルスの主神イーリスを封印するという辰馬の壮途を彼女らがいまさら邪魔するとは思われないが、やはり胸中複雑なものはあるだろう。可能な限り遠ざけていた方が、両者のために良い。すっかりと悪名高く、ウェルスの民から憎まれる身となった三聖女は、そうして王都シーザリオンを発った。女神とのつながりは断たれたとはいえまだ潤沢な神力を備える身、まず心配は必要ない。


 かくして辰馬はふたたび馬上の人となって王都シーザリオンから草深い野山に入る。先導するのは明染焔が従えるところの竜の巫女イナンナと、竜の魔女ニヌルタ。神域の霊峰にたどり着くにはかの地で生まれ育った彼女らの先導が不可欠である。


「かはっ、けふ……、っ、くぅ……」

 馬上、ときおり辰馬が苦しげに咳をしてバランスを崩す。本来ならまだ絶対安静の傷だ。喉の裂傷は危うく致命傷寸前であり、辰馬が魔王の力とその強運に護られていなければ今頃生きていられない。馬を横に並べる神楽坂瑞穂、エーリカ・リスティ・ヴェスローディア、晦日美咲の三人は痛まし気に主君であり夫である無二の存在を見遣ったが、彼女らの力も尽きている。瑞穂の力はルクレツィアがシーザリオンの民全員を天使化させようとしたあの術を阻止するために枯渇し、美咲の力もルクレツィアから女神の干渉力を消し去るために使い果たされた。エーリカの力はまだ絶えてはいないが、そもそも彼女の保有する神力の霊的鉱脈は少なく、十分に辰馬を治癒するに至らない。それでもエーリカが、今では頼りであった。


「たつまー、ホントにだいじょーぶ?」

「だいじょーぶとかだいじょーぶじゃねーとかじゃねぇ、やるんだ……人間を玩具にするばかたれどもを、まとめて打ち払う、これが人類最初で最後のチャンスなんだからな!」

「んー……でも、たつまの身体が……」

「あと10年は持たせる。「シドゥリの媚毒」が完成して本格的にイーリスを殺せるときまでは、おれは死なねぇ」

「10年って……」

「おれの存在も消し去る必要があるからな、「世界を人間の手に帰す」って言いながら盈力持ちの魔王継嗣なんてモンが生き残ってたら話にならんわけで。おれはもとからイーリスを殺したら死ぬつもりだ」

「そんな、アンタ……それ瑞穂とか牢城センセに言ってんの!?」

「いや、言えねーよなぁ……。お前には言えるんだが、なんでかなぁ……」

 なんでもかんでもなかった、それは瑞穂や雫に比べて、エーリカの大事さが辰馬の中で一段落ちる、という宣告。辰馬はそのことに気づかず首をかしげるが、聡く気づいたエーリカは愕然と、しかしながらやはりそうかという納得をもって、辰馬の言葉を受け止める。受け止めて、笑った。


「そりゃ、ね。エーリカさんはそんだけアンタにとって特別ってことよ! ふふーん、瑞穂よりも、牢城センセより!」

「そーなんかねぇ……」

 以上が、行軍中の天幕で交わされた言葉。エーリカはこの、新羅辰馬の託宣ともいうべき言葉を自分一人が受け取ったことを武器にして、瑞穂たちほかの妻たちを牽制、最終的に自分が単独で新羅辰馬を継ぎ、女帝の位に就く。この時点でもすでにエーリカは自分だけが情報を得た=特別扱いを受けた=寵愛一番は自分である、と主張し、まず密偵として極めて優秀な美咲を偵察の名目で遠ざけ、最も強大なライバルである瑞穂に対して「辰馬の一番はエーリカ」という情報を刷り込むのに余念がなかった。


 しかしそれが結実するのはまだ先のこと。


 辰馬はエーリカの暗躍暗闘に気づくことなく、毎日天幕の中でエーリカの治療を受ける。これ自体が瑞穂たちに疑心を乗じさせることになるのだが、辰馬としては等しく愛しい妻たちが互いに寵を競って牽制し合うという事実がそもそも慮外であり、対応する以前に思い至ることがなかった。


 そんななか、行軍すること2週間ほど。ここが南方とはいえ10月近い高山は十分寒く、となると瑞穂が震えだす。夜、天幕の中で、辰馬は瑞穂の肩を抱きよせ温めようとしたが、瑞穂はビクリと身をこわばらせた。


「ご、ご主人さま……いいん、ですか?」

「あ? なにが?」

「わたしより、エーリカさまと一緒にいたほうが……」

「……わけわかんねー遠慮はすんな。おまえもっと図々しくなっていーんだからな」

 辰馬は身を退かそうとした瑞穂をぐいと抱き寄せ、豊満な胸に手を伸ばして巧みに捏ねまわす。そのまま唇を重ね、そして肌を重ねた。10年前とは違う、技巧を凝らした肌の交わり。瑞穂がなにを思い悩むのか、全知全能ならぬ身にそれはわからないが、とにかく至誠の愛情をもって心を寛げられればいいと思った。胸と喉の傷が疼痛を訴えるのを我慢しながらの行為ではあったが、辰馬としては思いを伝えられたと確信する。


 この晩、新羅辰馬と神楽坂瑞穂、そしてエーリカ・リスティ・ヴェスローディアの間にそれぞれ子が授かる。シェティ・ヴェスローディアはのち赤龍帝国の皇太子となり、新羅獅廉はシェティとほぼ同時に生まれるがエーリカに忌まれ、エーリカが瑞穂を弑した際、10歳をわずかに越えたばかりで命を散らされることになる。とはいえまだこの時点で、瑞穂もエーリカも自分たちが子を授かった事実に気づかない。


 そしてまた征くこと数日、霊峰の峻険はいよいよ険しくなり、千軍万馬の兵たちも進むことが難しくなる。道幅が極端に狭く、進むこと自体が困難なのだ。辰馬は兵たちを中腹の広場に勒して有事の備えとし、自分と神楽坂瑞穂、エーリカ・リスティ・ヴェスローディア、晦日美咲、朝比奈大輔、出水秀規、上杉慎太郎、明染焔、ニヌルタ、イナンナ、厷武人、長船言継、ガラハド・ガラドリエル・ガラティーン、セタンタ・フィアン、パルジファル、セアラ・コナハト、オスマン・ヘスティア、ハールーン・アル・アッタリブ、マンスール・イブヌル・ワッカース、戚凌雲の計20人で先に進む。


「ようこそ、赤き竜の帝」


 そう、声がかかったのは兵を分かってさらに2日ほど進んだところ。巨大な洞穴の前にたたずむ翠の髪とエスニックな衣装、優しく穏やかだが、どこかひとを見下した目でこちらを睥睨する女性、その瞳はトカゲのように縦に割れる。翼や鱗は顕現していないが、こちらに向けるプレッシャーの威力からしても、間違いなく竜種。それも上位の。


「ひさしぶりねぇ、おばさま……ッ!」

 矢のごとく風のごとく、翼を飛ばして馳せたのはニヌルタ。「天に蒼穹(そうきゅう)、地に金床! 万古(ばんこ)の闇より分かれ出でし、汝ら万象の根元! 巨人殺しの神の大鋸、わが手に降りて万障(ばんしょう)を絶て!! 天地分かつ開闢の剣(ウルクリムミ)!!」山ごと消し飛ばす勢いで放たれる、必殺の一撃。しかしおばさまといわれた女は片手一つでニヌルタの腕を掴み止め、爆炎の衝撃波を柔らかく打ち消してのける。そしてついでとばかりニヌルタに蹴打。無造作だが万力の強さで片腕をロックされ、もう一方の腕は役に立たない義手でしかないニヌルタはまともに喰らった。10メートル以上吹っ飛び、岩肌に激突して動かなくなる。焔とイナンナが臨戦態勢をとるが、辰馬はそれを片手をあげて制した。


「いらんこと暴れんな、ほむやん。……あんたが、イシュハラ?」

「その通り。霊峰の管理者、女神グロリア様の世話役たる原初の巫女、イシュハラです」

 辰馬の言葉に、イシュハラはにこやかに返す。数十万の軍勢はここにないとはいえ、最強の精鋭たちを前にしてその実力がわからないでもなかろうに、わかったうえでなお余裕がある、そういうことか。


「私はグロリア様から代行権限を授かっていますので。戦いになればあなた方など一瞬ですよ?」

 さらには、心も読めるらしい。瑞穂が持っていたサトリに近い力か、それとも辰馬が修練で手にした自在通に似た力か、なんにせよ厄介なことこの上ない。


 しかし。


 辰馬は赤い瞳に力を込める。それは破壊のための力ではなく、創世の力。辰馬を加護する魔王にして辰馬本来の姿といってもいい創造と破壊の神、魔王シヴァ・ハリハラの威力、それを恐縮して瞳に籠める。


「く……それが、ピナーカ……、魔王の力の、根元ですか……」

「そーいうこった、退け。さもないと潰れるぞ、アンタ」

「……っ、ここであなたの力を枯渇させれば、私の役目としては十分……!」

 赤き月の光のような辰馬の眼光、それに絡めとられながら、なお抵抗の意思を捨てないイシュハラ。自分が潰えても女神が生き延びるなら本懐、彼女は心の底からそう思っており、自分の命など最初から顧みていない。


 辰馬一人なら、イシュハラの思い通りイシュハラと相打ちで終わる。だが、今この場には信頼のおける仲間たちがおり、辰馬の負担を減らす。力を封印された状態のイシュハラを縛り上げることは、この場の誰にとっても難しいことではない。


「ほむやん、捕縛」

「……手ぇ出して大丈夫か、コレ?」

「だいじょーぶ、ビビんな」

「ビビっとらんわ! ほな、ふん縛らせてもらうで」

「く……、グロリア様、申し訳、ありません……」


 そして、一行は洞穴の奥に進み。


 そこで雄偉なる蒼き竜の姿を目にする。


 巨大ではあるが、世にもっと巨大な竜はいる。しかしまとう威光の輝きが、世界に存在するありとあらゆる竜族とは一線を画した。その姿を見ただけでおもわず涙を流してしまうのは相手が創世の神なる竜であり、自分たちをこの世界に作り出した造物主ゆえか、新羅辰馬以外の19人はひとしく神龍の神々しさに打たれ、戦意を失って膝をついた。


 そんな中。


「っし、そんじゃ、やるか」

 

 辰馬だけがいつも通りに、感動もしていなければ畏怖に打たれもしていない。再び、赤き月の瞳を開き、盈力を全壊。


 赤き光が盈ちた。


 光はまずこの竜洞を満たす神力を祓い、祓う力を徐々に広げていく。それは【神国】ウェルスを神力の加護から外し、クールマ・ガルバに残る神魔を駆逐した。大陸全土の辺境に未だ残っていた神魔も、世界から神力が失われることを知って本来あるべき世界に還る。ある程度以上の力を持つ存在は、このときをもって完全に、アルティミシアの大地から消え去った。


 眠れる巨竜が、不快気に身じろぎする。深い夢の中にいて、なお辰馬の存在を邪魔者と認識したらしい。竜は眠ったまま竜洞内に無数の青い稲妻を降らせ、辰馬は平然とそれを受ける。が、他の19人はそうはいかない。


「みんな、これでさよならだ。おれはもうこっから動くわけにいかんし。ここから出たらせっかくの封印が無駄になる」

「ご主人、さま?」

「悪いな、瑞穂。一緒に生きて、もっといろいろ楽しいこともあったかもしんねーけど。おれはもう、おまえのそばに居れない」

「ちょ、たつま、冗談よね!?」

「エーリカ。お前にはもう言ったよな。そーいうことだ。あとはみんなを頼む。お前、まとめ役に向いてると思うから」

「へいか……辰馬さま!」

「晦日……最後に、美咲って呼んどくか。智咲のことも、もっかい抱いてやりゃよかったな……」

「辰馬サン、一緒に帰るっスよ!?」

「シンタ……無理だって。おれがここを出たらイーリスはおまえらを狙う。これからのお前は将軍さまなんだ、部下に責任もて」

「新羅さん……これまで、ありがとうございました!」

「あー……大輔。おまえは元帥になれ。きっと名将として名を残す」

「主様……、結局伝記は書けずじまいでゴザルな……」

「お前の覚えてる新羅辰馬を描いてくれりゃいーわ。売り上げの半分は慈善事業に充ててくれ」

「ご主人さま……本当に?」

「瑞穂、これはもう決めたことだ。時間がたつと迷いが出る、行ってくれ」

「でしたら、会いに来ます! 1月に一度でも、2月に一度でも! アカツキからウェルスまで、ここまで、何回でも会いに来ます! 牢城先生も、磐座さんも、北嶺院先輩も、だれもまだ納得してないです! わたしの知っている新羅辰馬さんなら、かならず全員を納得させてくれるはずです! でしょう?」

「……そーだな、まあ、一方的に決めるのはズルいか。よし、んじゃあ2か月に1度、皇妃2人ずつここに来い。待ってるよ。……だから、今は行け!」

 

 雷霆が奔り、辰馬と瑞穂の間を裂く。瑞穂は辰馬に手を伸ばしたが、その左右の肩をガラハドが掴んで雷霆を躱させた。


「皇帝陛下! 皇妃殿下の身の安全はこのガラハドが保証いたします! それでは!」

「ガラハド、悪い……お前の刻印、解いてやる時間がなかった……」

「お気になさいますな。明主に仕えられてこのガラハド、至上の誉れでございました!」


 そして19人は竜洞から駆け出す。洞内の大嵐が嘘のように、世界は清浄の気で満ちていた。


そう、清浄だった。神力による過剰な浄化も、魔力による淀みもない、一切の濁りのない気というものを、人々はこの日初めて味わった。人間種族に最適されたこの空気の恩恵で、この先人類の寿命は一躍10年近く伸びることになる。


「ご主人さま……また、会いに来ますね……」

 赤竜帝国皇妃、真なる聖女、神楽坂瑞穂は中腹で軍隊と合流すると、赤龍帝国帝都太宰に向かい凱旋の師を興した。「勝利、平和、万歳!」赤龍帝の勝利を称える兵士たちの大歓呼のなか、瑞穂以下将帥たちの表情は、一様に暗い。

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