第29話 川を埋める浮橋
「これも、授けておきましょう」
開戦から遡ること1週間、霊廟。女神グロリア・ファル・イーリスは法王ルクレツィアに一枚の石板を授ける。そこに記されるのは十行の文字列と、その後に続く無数の名前の羅列。十の文字列はそれぞれカイオト・ハ=クァデシュ、アウファニム、エレリム、カシュマリム、セラフィム、マラキム、エロヒム、ベネ・エロヒム、ケルビム、イシム。セラフィムとケルビムが記されていることから天使にかかわるものであろうことは推察が付くが、それ以上ルクレツィアにはわからない。彼女は正統派の神学を収めた法王であり、異端に関しては通り一遍の知識しかなかった。
「ミシュナ・トーラーによる天使録。セラフィムなんて下位の天使より、はるかに上位の存在を記してあります。アカツキの軍勢を蹴散らすには十分でしょう。それに……あなたと、そして聖女アトロファ、聖女ラケシスにも力を与えます。存分に戦いなさい」
「は、女神のご聖恩に感謝します!」
そうして、30万を率いテ・デウム川の前に出たルクレツィア。本陣にはアトロファとラケシスの姿も見えるが、ルクレツィア同様、その瞳には人間味ややさしさがみじんもなかった。
「見えました、アカツキ軍です!」
「そうですか。蹴散らしなさい」
伝令の報告に、振り返ることなく。作戦指示を出すこともなく紅茶をくゆらせるルクレツィア。アトロファとラケシスも、伝令に対して塵芥に対するほどの感情も動かさない。
「法王猊下は?」
戻った伝令にそう訊いたのは、青い服とベレー帽に法衣のエプロンをまとった女性士官。まだ少女と言っていい年齢でありながら、腕につけた階級章は少佐となっており彼女の有能さがうかがえる。レオナ・ブォナパルテ、長らく続いていたクーベルシュルトとの国境紛争におけるウェルス側の英雄であり、ウェルスが誇る巨砲「竜砲」師団の指揮官である。
「それが……ただ、蹴散らせ、と……」
「ふむ。ならば私たちはご下命に従うのみだ。アカツキの蛮兵に神国の神威、見せてやるとするぞ!」
レオナの檄に兵士たちがおう、と湧く。最前線に配置される兵は竜砲師団含めて3万に満たない。全軍30万をもってきたルクレツィアが大兵で本陣を守らせ、前線には寡兵をしか置かなかったことに対する不満の声はあったが、それでも法王ルクレツィアはウェルスの精神的支柱、歯向かうことなど考えもつかず、そしてレオナは川幅2キロのテ・デウム川と自ら率いる竜砲師団に絶対な自負を持っていた。竜砲と號す長距離砲の射程は実に1.2キロ。渡河中の敵を半ばで狙い撃つのに最強の威力を持ち、これを河岸に30門並べるかぎり赤龍帝国軍がウェルスの土を踏むことはない。
ましてや。
天空に目を遣れば100騎の竜騎士団。それを指揮するのは神聖騎士団団長テオドールス・アウレリオス・スキピオ。ラース・イラのガラハドのような華々しい天才性こそないものの、実直な歴戦のつわものは鋭気風発、もし敵陣にガラハドがいたとして、簡単に負けることはないだけの実力者だ。
「さあ、来るがいい新羅辰馬。過去1200年、侵略者の剣をことごとく退けたウェルスの護り、抜けるものなら抜いてみろ!」
吠えるレオナ・ブォナバルテ。天に竜騎士、地に竜砲、そして両軍を隔てるテ・デウム川という竜。3頭の竜が赤龍帝国軍を阻む。
そして早速。
神聖竜騎士団のうち先遣の6騎が、赤国帝国のまだ整っていない陣に猛襲をかけた。
「ち……やっぱり厄介だよなぁ、竜騎士……」
蛇腹の短刀・天桜で空を薙ぎ払いつつ、新羅辰馬はそうぼやく。そもそも体躯数十メートルの巨体が空から急降下してくるという状況が恐怖であり、しかもその巨獣は鋭利な爪と牙のみならず、業火や氷結、嵐の吐息を吐くときている。空中にいる相手にこちらの反撃を当てることは容易ではなく、結果として損害がいや増すばかりだった。
「こういうときのための俺たちです。やるぞ、赤ザル! キモオタ!」
「指図すんなや! オレのが活躍するし!」
「なんの。拙者が一番でゴザルよ!」
三バカが駆けだす。大輔は跳躍して降下した飛竜より高く舞い上がり、空中で巧みに身体をひねって発条を利かせると必殺の剛拳を竜の横っ面にたたきつけた。シンタは担いだマスケットに自分で調合した銃弾を込めるとクイックドロウで射撃、竜の翼の薄い皮膜を撃ち抜いて飛行力を奪う。出水は辰馬譲りの盈力を練り上げて巨大な死神の鎌を生成すると、一閃、二頭の竜の首を同時に刈り落とす。
「っはぁ! なんぼのもんでぇ!」
「今更、竜が相手といって臆する俺たちではない!」
「今の拙者カッコよかったでゴザろぉ!?」
威勢よく吠える三バカの実力はすでに天下に隠れもなく、竜騎士を相手にして引けを取らないどころか圧倒する。2頭を殺し2頭が戦闘不能、のこる2頭は恐懼し竦み、騎士は乗騎の怯えを悟って引き下がった。この隙に辰馬は晦日美咲に力を分け与え、美咲は「加護」を全軍30万に。さすがに完璧な防御力を30万にまんべんなく、ということは不可能だとして当面それなりの防御を得た赤竜帝国軍は大急ぎで野戦陣を構築、テ・デウム川に浮橋を放り込み、それをボートのような小型艇に乗り込んだ船大工たちが次々と連結していき、つながれた浮橋の上を兵士たちが前へ前へと進む。これに驚いたのはウェルスの竜砲師団レオナ・ブォナバルテであり、彼女は川を埋め尽くす浮橋、という戦略構想に愕然とした。
「悪魔の智謀だ……!」
思わず呻く。650年に蛮王ゴリアテが超えて以来1200年間、誰一人越えることを許さなかったテ・デウム川が、簡単に超えられようとしている。レオナはかぶりを振って意志を立て直すと竜砲師団全軍に砲撃を下知するも、全軍がやはり川を埋めんとする浮橋に浮き足立ってしまっていた。本来の戦闘力を発揮できればそれでも橋を渡ってくる敵兵に竜砲で大打撃を与えられたのだろうが、そのチャンスすら奪われてしまう。かろうじてレオナとその直属が4、5門の竜砲を稼働させはするものの、それだけでは弾幕が薄く、必殺の威力たりえない。本来連携して地上と空から赤竜帝国軍を挟撃するはずだった神聖竜騎士団も、川を埋めるという新羅辰馬の壮大な戦術構想に肝をつぶされてほとんど動けない。かろうじて数騎が帝国軍首脳部を襲ったが、やはり朝比奈、出水、上杉の三将により返り討ちにされた。
川岸の陣地を奪い、テ・デウム川の攻防戦はこうして1日で終わった。敗戦の将、レオナ・ブォナバルテは最後まで味方を逃がして自身は囚われ捕虜となったが、赤竜帝・新羅辰馬は自ら彼女の縄をほどいて解放する。
「これで、わたしが恩を感じると思ったら大間違いだぞ、侵略の王」
「あー……うん、侵略。うん……。まあ、そーいう認識になるわな」
「実際には、宣戦布告を突き付けてきたのはそちらなのですが」
横から磐座穣が言うと、レオナは顔色を変える。「そんなはずはない」とつぶやき、ついで「元老院か……」と呟き、最後に「ならば法王猊下の変貌は……」と呟く。
「まーなんにしても、帰っていーよ。もー一回戦う気ならそれもいいし」
「……よかろう、そうさせてもらう!」
そうして解放されたレオナは後方の本陣に参じ、法王ルクレツィアに敗戦を報告。アトロファ、ラケシスこそいないものの見知らぬ長身の男たちに守られた幕舎で、レオナを引見したルクレツィアは一言。
「斬りなさい」
そう言った。すかさず男たちがレオナを押さえつけ、軍隊にあって荒くれ男たちとも渡り合ってきたレオナが身じろぎもできない。驚異的な膂力であり、それ以上に、敗戦の責を問われることは覚悟していたが、いきなり命を取られるとは思っていなかったレオナは背筋を凍らせる。
そこに飛び込んできた人影一つ。聖剣デュランダルを手にする騎士は当然、神聖騎士団団長・テオドールス・アウレリウス・スキピオ。彼は男たちに斬りつけ、体当たりをくらわせるとレオナを解放し、逃げるよう叫んだ。
「聖剣に斬られて血の一滴も出ない……これが女神から授かった天使とやらか、ルクレツィア!?」
「乱心しましたか、従兄殿? 敗戦の指揮官をかばうだけでなく、イーリスさまへの不敬。見過ごすわけにはいきませんね」
「乱心、か。自分が操られているということにも気づけていないお前に言われるとは、心外だ」
テオドールスの言葉に、ルクレツィアの視線が温度を下げる。もともと36歳とは思えないほどに可愛らしい顔立ちは邪悪な蛇のような陰惨な表情を帯び、冷徹に酷薄にテオドールスをにらみつける。凄みのある視線に睨まれた騎士団長も豪胆、睨み返し、スキピオ家の従兄妹同士は対峙して隙をうかがいあう。
「あなたを殺さなくてはならないとは、残念です。アリミエル、バラキエル、ガブリエル、ヘリソン、レベス。やりなさい」
天使と呼ばれた5人の男が、無機質な瞳でテオドールスを襲う。テオドールスは聖剣デュランダルを振るい応戦、これを切り刻むが、天使たちは切られても緒流さず、痛みも消耗も感じずすぐに再生し、たちまちにテオドールスは窮地に陥った。
「従兄どの、言い残すことは?」
「この世界は女神の箱庭ではない。貴様が支配者であると思いあがっていられるのも今のうちだ、イーリス!」
ルクレツィアは残念だ、と言いたげにかぶりを振り、それを合図に天使の一人がテオドールスの首を締めあげ、ものすごい怪力で騎士団長の脛骨をへし負った。テオドールス・アウレリウス・スキピオ、享年44歳。
レオナはほかに行く当てもなく、赤竜帝国の陣に投じる。歩哨から解放した敵将が戻ってきたことを告げられた辰馬は急ぎ幕舎に神楽坂瑞穂、磐座穣の両軍師、そして護衛として牢城雫を集めレオナ・ブォナパルテを迎える。レオナはルクレツィアの変貌とおそらくは殺されたであろうテオドールスの犠牲を語り、この上は自らの手でルクレツィアを倒しその盲を開く、ついては赤竜帝国の末将として従軍させていただきたいと告げた。
「……まーた女神のやりたい放題か。これだからなぁ……」
「新羅の神魔嫌いはこの際、置くとして。女神イーリス、放っておけませんね」
「とはいえ、グロリア様はこの世界と世界のルールを作ったお方です。これまでに相対した神魔たちとはあまりにも桁が違いますよ?」
「知らん。しばく……と、言いたいが、さすがに簡単には倒せんだろーからな。今回はどうにかして封じ込めることを考えよう。ここに電話はないから……ルクレツィアのとこに電話ある?」
「ありますが……?」
「んじゃ、そっからサティアに電話しよう。前回イーリスの弱点とか知らんっつーてたが、たぶんなんか知ってるだろ」
「美咲ちゃんに走ってもらった方が早くない?」
「いや……上位天使が相手だろ。晦日の「加護」は必要になる」
「あれ、力を分け与えてるご主人さまの負担が相当大きそうなんですが……」
「ほかに方法もねーからな。そんじゃ、夜が明けたら早々に突っ込む。白兵戦になるから、しず姉たちが主役だ」
「はいはーい、任せて♪ 最近あたし活躍薄かったからねー、明日は頑張っちゃうよー♡」
そして翌日。
「なんか、敵さんの士気が異様に高くない?」
前線で敵の動静を見る雫が、思わずたじろぐ気迫。その隣にレオナ・ブォナバルテが現れると、ウェルス軍の気迫はいよいよ勢いを増す。
「仲間を置いてひとり赤竜帝に下り、手土産として聖騎士団長テオドールスを弑した毒婦レオナ・ブォナパルテ。審判のときです。邪悪の赤竜帝、アカツキ軍とともに滅びなさい!」
聖女アトロファ、聖女ラケシスを左右に侍らせて、法王ルクレツィアは声高にそう宣言する。次の瞬間、ラケシスが腕を薙ぎ払い「書、宝輪、角笛、杖、盾、天秤、炎の剣!顕現して神敵を討つべし、神の使徒たる七位の天使!神奏・七天熾天使(セプティムス・セーラーフィーム)!」と必殺の神術「七天熾天使」を放つ。かつて見せた七天熾天使よりはるかに威力を増した一撃が赤竜帝国軍の前衛を崩壊させ、それと同時に、毒婦死すべしの気迫で意気盛んなウェルス軍が、堰を切ったように突撃する!
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