第13話「紅茶色の湯浴み」(2)


 かんかららん……と金属音。



 咄嗟に音の方を見る。



 湖のほとり、おばあちゃんがひとり、持っていた杖を落としたようだった。


 おばあちゃんは地面を這うように、杖を手探りしている。



 なんだ……敵襲かと思った……。



 僕はそのおばあちゃんから意識を外して、脇を通り過ぎようとした。


 一歩、二歩……と進んで、立ち止まる。



「ファウスト……?」



 不思議そうなリリィの声。



 ざわざわとする胸の内。



「ごめん、ちょっと寄り道……」



 僕は引き返して、おばあちゃんの元に向かう。



「大丈夫ですか……?杖、どうぞ 」


「おぉ……ありがとうね 」



 僕は白い杖を拾って、おばあちゃんの手元に渡した。


 おばあちゃんは、杖に体重を預けながら、よいしょと重く立ち上がる。



「ここらでは聞かない声……旅のお方かい?」



 優しげな老婆の声。


 穏やかさがありつつも、芯のある強い声だ。



 おばあちゃんは目元を緩く閉じたまま、開こうとしない。


 目が不自由なのかもしれない。



「まぁ……そんなところです。ではこれで……」



 さっさと立ち去ろうと、僕は踵を返す。


 

 そのとき、おばあちゃんが「あ」と音を漏らした。



「ごめんねぇ、悪いんだけど、辺りにこう、すべすべとした小箱はある……?」


「小箱、ですか?」



 辺りを見渡す。


 それらしいものは見当たらない。



「見当たらないですね……」


「そう……ありがとね。助かったよ 」


「いえ……」



 頭を下げるおばあちゃんに、僕は苦い気持ちで返礼する。



 そのとき、ぴちゃっと僕の頬に水がかかった。


 湖に視線を下ろす。



 真っ白いサケのような魚が、ぐるぐると僕の足元を泳いでいた。


 口には小さな箱を加えている。


 真っ黒な目が、真っ直ぐに僕を捉えていた。



 ……まさか、これなのか?



 僕は屈んで、白サケに手を伸ばす。


 サケは僕に箱をスムーズに明け渡すと、尾を一打ちして、水中に潜っていった。


「あ、あの……探してた箱ってこれですか 」



 僕は小箱をおばあちゃんの手に渡す。



 おばあちゃんはその表面を両手で探るようにして、みるみるうちに顔を輝かせた。



「おぉ……おぉ……!これです、これです。あぁ……良かった。ありがとう。なにがなにやら分からないけど、本当にありがとう 」


「いえいえ……」



 ……粋なサケがいたものだ。



「何かお礼をしないと……そうだ。旅のお方、今夜はウチに泊まったらどうです。何もないところですが 」


「いえ、ご迷惑になりますから……」


「そんなこと言わずに。恩には報いねば、気が済まんのです。さぁさ、お二人とも。こちらです 」



 にこにこと話すおばあちゃん。


 返事も聞かず、ゆっくりと歩き出した。



 僕とリリィは、顔を見合わせる。



「……ファウストが良いなら、良い 」



 リリィは真面目な顔で、僕に決定を任せた。



「……うーん 」



 親切にしてくれるのはありがたいけど……迷惑をかける結果になりそうで怖い。


 僕らはきな臭い身だ。


 これで、おばあちゃんの家が全焼したとなったら、相当寝覚めが悪い。



 ……でも、またとないチャンスかもしれない。


 正直、僕もリリィもヘトヘトだ。


 この先、ベッドで寝れるのなんて、いつになるかも分からない。


 早く休みたい。


 それが本音だ。



 ……一晩だけなら、きっと何も起こらないだろう。



「では……お言葉に甘えさせて頂きます 」







 歩いて十分程度。


 湖を見下ろせる小高いところに、おばあちゃんの家はあった。


 こじんまりとしながらも、小綺麗な家に見える。



 家の中は、あちらこちらにスロープや手すりが設置されていた。



 おばあちゃんが一人でも暮らしやすいように、旦那さんが作ってくれたそうだ。


 魔道具技師だったそうで、自動湯沸かし器とか、自動陳列食器棚とか、不審者撃退アラームとか、色々あるらしい。


 すごい旦那さんだ。


 そんな旦那さんの形見が、先の小箱だったんだとか。


 大事なわけだ。



 僕とリリィは、紅茶を淹れる手伝いをしながら、おばあちゃんの色んな話を聞いた。



 一人息子が冒険者になって、帰って来ないこと。


 旦那さんが他界なさって、寂しい夜が続いたこと。


 今は、朝と夜にお手伝いさんが来て、食事を作ってくれたり、お話したりすること。


 十歳の頃から、目がまったく見えないこと……。



 窓の向こう、夕空に焼けた湖と、視界いっぱいの山岳を眺めながら、僕らは紅茶を飲んだ。


 高級な茶葉ではなかったけど、優しい香りのする良い紅茶だった。



「お客様に洗わせちゃって、悪いわねぇ 」


「これくらいはさせて下さい。洗うの、下手くそですけど 」


「良いのよ。ありがたいわ 」



 おばあちゃんに教わりながら、皿とカップを洗う僕とリリィ。


 台に立ちながら、二人並んで皿を洗う。


 僕が水洗い係で、リリィが乾拭き係だ。



 僕もリリィもやったことのない作業。


 新鮮な平凡さだった。



 ソプラおばあちゃんは、にこにこと笑っている。


 僕もなんだか気分が良い。





 皿洗いを終えて、僕は湯浴みのためのお湯を沸かす。


 僕もリリィも泥と汗でベトベトだ。

 


 王宮で毎日お湯に浸かれていた頃が懐かしい。



「じゃあ、リリィ、先に湯浴みしておいで 」



 お湯が沸いたのを確認して、リリィにぽんとタオルを渡す。



 リリィは瞬きを数回したあと、じっと手元のタオルを見つめ出した。



「体……洗うの……?」



 訝しげに首を傾げるリリィ。



「……えっ……と、もしかして、知らない……?水浴びとか、お風呂……」


「……?」



 リリィはこてん、と反対側へ首を傾げた。



 まじか。




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