第11話「僕が許す」(1)

 川のせせらぎが聞こえている。





 視界いっぱいの星月夜。


 遠い遠い夜空で、満天の星が煌めいている。



 目の前、ふわっと光が瞬いた。


 視界を遮るように、小さな淡い光が目の前を通り過ぎていく。


 その光を目で追ってみると、その光は、辺りに漂う光の群れに飛び込んでいった。


 蛍の群れだ。



 森の深い暗闇の中、蛍たちがふわふわっと瞬またたいている。



 小川の向こうで、蛍が光る。



 浮かび上がる、少女の横顔。



 小川の向こう側、膝を抱えて座っている少女。


 纏う雰囲気は儚げで、今にも消えてしまいそうだ。



 何故だか、気持ちがざわめく。



 僕は上体を起こそうとして、バランスを崩し、顔から地面に突っ込んだ。



 左腕に違和感。


 見てみると、左の肩から先が、まるっきり無くなっていた。



 途端、左腕にズキッと鈍痛が走る。


 無くなったはずの左腕に。



「……っ!!」



 堪らず、顔を顰しかめる。


 

 ジクジクジクジク、痛覚が脳を焦がしている。



 リリィを見やる。


 彼女はまだ、そこに座っている。



 浅く息を吐き出して、ひとまず、息を整える。


 落ち着いて、腕の痛みから意識を外していく。


 深呼吸。

 


 そのとき。



「ーーヴァゥッ!」



 リリィの背後から、飛び出す影。


 三匹の黒い狼が、牙を剥き出しに、リリィに飛び掛かる。



「あぶなーーっ!」



 夜闇を舐めるーー黄金の雷光。


 バッと明転する森。


 雷光が過ぎ去ると、森には暗闇が戻り、黒焦げになった三匹の肉の塊が、ボトボトっと地面に転がった。



 蛍が慌てて逃げ惑う。



 リリィは少しも変わらず、そこに座っている。



「……リリィ 」



 名前を呼んだ。



 僕は立ち上がった。



 リリィはゆっくり、目だけをこちらに向けた。



 そのまま黙って見つめ合う。



 蛍が僕らを遠巻きにして、ふわふわ飛んでいる。



「……」



 僕は、最初の一声を迷っていた。



 聞きたいことは色々あった。


 けれど、リリィの顔を見ると、何を言うにも躊躇ためらってしまう。


 聞いて良いこと、聞いてはいけないこと、話して良いこと、ダメなこと……余計な考えが頭をよぎって、グルグル巡って、迷う。



 うまく言葉が出てこない。



「……生きてて良かった……僕も、リリィも」



 本心を、素直に語る。



 リリィは目を逸らした。



「……白い……鳥たちが、助けてくれたの 」


「あの、ハヤブサじゃなくて……?」


「うん……沢山の、白いの……」


「……そっか 」



 チラッと辺りを見渡す。


 ハヤブサは見当たらない。



 多分、"神聖術"の効果が切れたんだろう。


 憶測だけど。


 ……死んではいないと思いたい。



 流れる沈黙。


 肺が縮こまるような重苦しい空気に、蛍たちも光を弱める。



 なにか話さないと……。



「……そういえば、話せるんだね、神聖語 」


「……うん 」



 リリィの肩が少し強張る。



 それを見て、僕の心に小さな罪悪感が芽生える。



 僕らは口を閉ざした。



 少し肌寒い風が、僕らの間を通り過ぎていった。



「……私が、竜神を、食べたから……」



 掻き消えてしまいそうなリリィの声。


 長い睫毛が震える。



 僕は少しの動揺を抑えながら、慎重に言葉を吟味する。



「……大丈夫、だよ 」


「……大丈夫じゃ、ないよ 」


「大丈夫だよ 」



 言い聞かせる僕。



 リリィはふるふると力なく首を振った。



「……見えてるの。過去も、現在も、未来も……分かるんだよ。もう、ダメなんだよ……」



 くしゃっと歪む眉。


 きゅっと窄められた目元。



 僕は……何も言えなかった。


 リリィの言葉には力があって、僕は心からそれに納得させられてしまった。



「そんな、こと……」



 でまかせを言おうとして、僕は尻窄しりすぼみに閉口する。



 ……これは、ただ、僕が否定したいだけだ。


 現実を見なくちゃいけない。



「……何が、ダメなの?」


「……」



 リリィは答えてくれなかった。


 

 僕の質問は、ただただ、リリィの眉間の皺を濃くしただけだった。



 リリィは俯いたまま、ゆっくり立ち上がった。


 風に揺れるボロボロの外套。


 破れた布の隙間から、生傷のついた肌が覗いている。



「……ごめんね、ファウスト……」



 呂律の回っていない涙声。


 ひっく……と小さなしゃくり声が、耳に届く。



「……さよなら 」



 リリィは走り出した。



 溢れた涙が銀色に光って、宙を流れていく。



 振り乱れる、血を被った白金の長髪。


 どんどん遠ざかる小さな背中。


 土に汚れた裸足。



 その光景は、僕の、脳天を貫く、真っ白い、恐怖で……。


 受け入れられない。



「待って……!!リリィっ!!」



 足をほつれさせながら、僕も慌てて走り出す。


 傾く体を前へと飛ばして。



 蛍の光る小川を挟んで、僕らは駆け走る。



「来ないでッ!!」



 悲痛な叫び。



 直後、黄金に明転する視界。



 ドォン!!と雷鳴。


 僕の真横の樹木が一瞬で丸焦げになる。



 香る死の気配。


 焦げついた炭の匂いを突っ切って、僕はリリィを追いかけ続ける。



「話をしよう……!!ねぇっ、リリィ……!!お願いだ……!!」



 僕は声を張り上げる。


 リリィは振り返りもしない。



 みるみる離れていくリリィの背中。



 呼吸が辛くなる。


 肺が冷えて、渇いていく。


 脇腹が引き攣って、足が重たい。



 そうこうしている内に、リリィは更に遠くへ走って行ってしまう。


 遠くへ、遠くへ。



 このまま、見えなくなってしまいそうだ。



 ーー諦めるのか?


 

 疲弊した脳裏に自問が浮かぶ。

 


 ダメだ。


 絶対に行かせちゃいけない。


 行かせたくない……!



 僕は歯を食いしばって、足の回転をがむしゃらに上げた。



 小川に足を突っ込む。


 ばしゃん!と水を蹴り上げて、僕は小川を走り出した。


 川の流れに後押しされて、倒れ込むように、流されるように、疾走する。


 

 リリィは未だ遠い。


 けど、今は僕の方が速い……!



 みるみる縮まる距離。



 僕は必死にバランスを保つ。



 リリィが振り返って、一瞬驚いた顔をした。



 肉迫する僕とリリィ。


 

 手が届く。


 もう少し……!!



 ーーズボッ、と足が地を空振る。



 階段を踏み外すみたいに。


 バランスを崩し、転倒すると、僕は一気に川に飲み込まれた。



 視界が潰れる。


 川の流れが鼓膜を圧迫して、三半規管が狂う。


 限界ギリギリだった呼吸は、一段と苦しさを増して……ボコっと、口から大きな泡が溢れ出た。



 両足が、川底を蹴る。



「……っは! ゲホッ! ゴホッ!!」



 解放された呼吸。


 空気を目一杯吸い込んで、肺に入り込んだ水を吐き出していく。



 辺りを見渡す。


 あるのは、暗闇だけ。


 もうどこにも、リリィの姿は見当たらなかった。



 小川の岸に座り込み、荒い呼吸を続ける。


 濡れた服が重い。


 心臓が煩い。



 苦しさから逃れ喘ぐように、喉を広げ、天を見上げる。


 煌めく満天の星。



 何か酸っぱいものが込み上げてくる。



「は……ぁ……」



 ヴェールのように、薄く掛かる重苦しさ。


 頭のてっぺんから、じわじわと潰されているような気がする。



 僕は頭をブンブン振って、その重苦しさを吹き飛ばした。



 息を整え、声を張り上げる。



「リリィーっ!!」



 名前を呼ぶ。


 夜の闇に、僕の声は溶けて、消えていく。



 僕は大きく息を吸い込んで、肺に燻る綺麗な空気を押し出した。



「……ありがとうーッ!!」



 蛍がざわめくように、チカチカと光る。



 僕は立ち上がって、森の暗闇へと叫び続ける。



「君に会えてっ!良かったーッ!!」



 静けさが木霊する。


 僕は肩で息をしながら、振り返って、また叫ぶ。



「ずっと……寂しかった!! ずっとひとりだった!! でも、君に会えた!! 君が見つけてくれた!! 」



 鼻の奥がツンと痛くなる。


 顎が震える。



「……だからっ……! だから、ありがとう!!」



 沈黙が鳴っている。



 これは、自己満足だろうか。


 胃の底に溜まったドロっとした後悔を、慰めてやる為の嘘だろうか。



 知らない。


 良いんだ、そんなことは。



 ただ、伝えたかった。


 だから。

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