第5話「vs魔神獣」(1)


 死人の表情を思い浮かべるとき、大抵のひとは穏やかに眠る人間の顔を想像するらしい。


 それは、願望だ。


 人の死に際は、安らかで、穏やかであると、そう考えたくなるのだ。



 僕は知っている。


 自ら、望まぬ死を迎えた者たちが、どういう顔をして死んで逝くのか。



 嫌というほど見てきた。


 恐怖に、苦痛に、絶望に、歪んだ顔を。


 正義や希望の名の下に、勇敢な顔のまま死んだ者は、ひとりもいなかった。


 皆、酷い顔をして死んだ。



 もうイヤだ。


 誰かに命を救われるのは。



 ひとりひとりの命の重さが、生々しい質量感を持って、僕の手元に残るのだ。



 すっかり傾いた天秤皿に、命、命、と積み重なっていくのに、対する僕は軽いまま。


 何もできない何もない。


 出来損ないの、空っぽの神子。


 決して釣り合うことはない。


 ……のに、どうして。



 どうして、皆、僕をたすけるんだ。







 ゆら、と地面が揺れた。


 僕は脱力した首を回して、振動の方向へゆっくり顔を向ける。



 巨大な黒い虎が、僕の方へ緩慢かんまんな動作で詰め寄っていた。


 口元はだらしなく裂けて、嘲笑ちょうしょうの笑みを浮かべている。

 

 

 身がすくむ。


 あぁ、あと数秒もすれば、僕はズタボロにされて死ぬんだろうな。


 そんな予感が、きゅっと胃をめ付ける。



「ぅ……」



 僕は悲鳴もあげれずに、強張った口からうめき声をこぼす。



 眼前。月明かりを背に、夜闇よるやみまとう巨大な虎。


 固まるばかりで何もしない僕を、闇虎は、赤い双眸そうぼうで見下ろしていた。



 僕は闇虎の目を真っ直ぐ見つめ、そして、そっと目を閉じた。


 目の端から一筋、涙が頬を流れ落ちる。


 

 もういい。


 もう、たくさんだ。



 ドクンドクンと脈打つ心臓。肺が引きつり、息は吸うばかりで、上手く吐き出せない。

 

 早く楽になりたかった。


 諦めばかりが、脳裏に満ち満ちていた。



 そんな真っ暗な脳裏にーー閃光がはしる。







 ーーリリィの顔。


 曇天どんてんの下、雨に濡れる、冷たい顔のリリィ。


 黄色い果汁のついた口で笑うリリィ。


 木漏れ日に照らされ微笑むリリィ。


 白百合の花束を抱え笑うリリィ。


 

 ……僕を突き飛ばした、リリィ。


 その顔は、今まで見たどの表情とも違っていた。


 ほんの刹那せつな、映った顔が、今鮮明せんめいに思い出される。


 眉を困らせて、目はうるんで、喜色に頬がゆるんで……。


 口を開く。


 記憶の中のリリィが。


 静寂せいじゃくに染み入るような声で、ささやく。



 『ーーいきて』と。







 気付けば、目は開いていた。



 引き伸ばされる刹那せつな


 スローに振り下ろされる、闇虎の凶爪。



 僕は自分でも驚くような俊敏しゅんびんさで、後方へ跳躍ちょうやくし、片手を闇虎へと向けた。


 全身を"何か"が掛け走って、片手から巨大な蒼炎が噴出ふんしゅつする。



 ゴウッ!と音を立て、闇虎の巨躯きょくを舐める蒼炎。



 闇虎はひるみ、低くうなると、一歩後ずさった。


 蒼い炎は消えぬまま、闇虎の黒い体にまとわりついている。



 着地した僕は両の足で地面を踏みしめ、闇虎と対峙たいじ


 腰を落として、前を見据みすえる。



 ツンと鼻の奥が痛くなり。


 気付けば、涙がこぼれ始めた。


 ボロボロと、涙があふれて止まらなかった。



「……ぅわぁぁァァァッ!!!」

「グォァァァアアッ!」



 重なる咆哮ほうこう


 体に力がみなぎって、拳に想いが握られる。


 両の拳は熱を宿し、蒼い炎を灯させた。



 夜闇を切り裂き、迫る闇虎。



 僕は蒼く燃え上がる拳を、迫る闇虎の鼻先目掛け突き出す。


 闇虎は俊敏しゅんびんに、横にステップして拳を避けた。


 流れるように、闇虎のすくい上げる凶爪が迫る。



 咄嗟とっさに、僕は後方に回転しながら爪を回避し、燃える裏拳を振り切った。


 柔い、パシャっとした感触がして、なにか液体が宙を舞う。



 見る。


 蒼炎に包まれ、闇虎の片足が蝋燭ろうそくみたいに溶け崩れている。


 

 それを見て、一瞬怯む闇虎。


 しかし、闇虎は即座にもう一方の爪を振り上げた。



 僕は直感に導かれるまま、爪のなぞるラインに沿って、右拳を振るう。



 弾け飛ぶ闇虎の前足。



「グォァアアッ……!」


 

 闇虎の苦悶くもんの叫び。


 態勢を崩して一歩後退あとずさりつつも、闇虎は身をひるがえし、跳躍ちょうやく。黒龍の絶壁側まで退避して、僕から距離を取った。


 身を低くし、此方こちらを睨む闇虎。


 闇虎の巨体は蒼炎に包まれ、じりじりと端から崩れ始めていた。


 爪の部分は既になく、短くなった前足でバランス悪そうに立っている。



 奇妙な感覚に包まれながら、僕は闇虎へとまっすぐ駆け出す。



 体が熱い。


 ついさっきまであんなに苦しかったのに、今は体の端から戦う力が湧いて出てくる。



「グォォァァアアアッ!!!」



 闇夜にとどろく虎の咆哮ほうこう


 闇虎の全身から闇の奔流ほんりゅう噴出ふんしゅつし、辺りを覆い隠すと、噴出ふんしゅつした闇が寄り集まって、無数の生物が形作られていく。


 現れたのは、無数の黒蛇、無数の黒狼、無数の黒燕。


 黒き獣たちは一気に夜を覆い尽くし、大群勢の壁となって、僕に襲い掛かる。



 投げナイフのように、鋭く飛来する黒燕。


 三匹一組の陣形で、包囲しながら襲いかかる黒狼。


 圧倒的物量と毒牙で、封殺しようと迫る黒蛇。



 迫る無数の脅威きょういに対し、僕は駆ける足を止めない。



 素早く、深く空気を肺に溜め込み、そして、解き放つ。



『どけッ!!』



 "力"を乗せた叫び。


 音は瞬く間に黒き獣たちに到達し、波紋が広がるように、ブワァッと蒼炎が広がる。


 瞬く間に、黒き獣たちはちりとなって消え失せた。



 一転、青白く照らし出された夜の世界。



 その中心を駆け走りながら、見据みすえるのは、視線の先ーー闇虎だ。



 闇虎は蒼炎に体を焦げつかせながら、明らかにたじろいでいた。


 その体躯たいくは、何故か随分と縮んでしまっている。


 今の闇虎は、そこらの虎の魔物より二回りほど大きい位だ。


 見るからにパワーダウンしている。



 今なら、やれるーー!



「ォオッ!」



 僕は右腕を大きく振りかぶってーー



 ーーヴン。


 空気を切り裂く音を、耳が拾った。



 刹那せつなの視界。


 眼前には、闇と牙。



 大質量の突進に、肺の空気が一撃で空になる。



 ……えっ?



 体を貫く、獣の凶牙。


 肉を裂かれ、骨を砕かれ、臓物を千切られ……。


 激痛。と、浮遊感。


 猫がネズミをくわえるように、僕の小さな体を、闇虎は軽々くわえていた。



 闇虎は止まらない。


 闇虎は猛スピードで地を駆け、勢いそのまま、僕を地にゴリゴリとこすり続ける。


 僕は絶叫することさえできずに、地面を自分の体で掘削せっさくした。


 

 ようやく解放された、と思えば、すぐに体が宙を舞う。


 あふれる血をき散らしながら、僕は闇虎にぶん投げられた。


 地面をバウンドする体。


 骨の折れた感触がしたが、最早どこの骨か分からない。


 ぐちゃぐちゃの体で、地面を転がる。


 鼻血が詰まってしまったみたいで、呼吸がうまくできなかった。



 夜空に浮かぶ月が、ぼんやりと明るく、近いところに浮かんでいる。



 顔を歪むことすらままならず、苦しさに、大粒の涙をポロポロ流しながら、僕はただ呆然ぼうぜんと空をあおいだ。



 あぁ……リリィ……。


 なにが、悪かったんだろうね……。



 ゆら、と地面が揺れる。


 僕は眼球だけを動かして、闇虎を睨んだ。



 赤い双眸に殺意をたぎらせながら、蒼炎で焦げた肢体したいを引きずり、こちらへ迫る闇虎。



 対する僕には、もはや腕一本上げる力もない。



 感覚が遠ざかっていく。



 終わりか。



 かすむ意識。そう他人事のように考えた。







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