第8話 模範怪盗
どれほどの時間が経っただろう。
数秒にも感じたし、数分にも感じた。
結城が作り出した異様な空気感が教室を支配していた。
彼女に馬乗りをされたままの宍戸はその空気に我慢できず、笑ってしまった。一度漏らすともう止まらない。
小さな笑いは次第に魔王のような深く大きな笑いへと変わっていく。
ついさっきまで怯えていた宍戸の変わりように、今度は結城が退いた。
「何を笑っているの……? あなたはこれから模範性を奪われるのよ?」
「奪われないよ」
結城が腰を浮かした瞬間に、宍戸は立ち上がりる。一方結城は尻餅をつき、彼に見下ろされていた。完全に立場が逆転していた。
「結城はさっき、『もう芝居がかったことしなくていい』って言ったな。こっちのセリフだよ」
宍戸は床に倒れたせいで付いた制服の汚れを手で払う。続けて押さえ付けられていた肩もようやく自由だと言うように回して見せた。
「結城、お前がこんな大金動かしてまで泥棒生活を始めたのはいつからだ?」
「そんなの今は関係ないでしょ」
「あるさ。答えろ」
宍戸は男性の中では声が高い方であるが、今出た声はかなり引くかた。その恐れから結城は彼の顔を見ずに渋々答える。
「中3くらい、かしら」
「やっぱり素人か」
彼女の回答を宍戸は鼻で笑う。しかしそれは勇気を苛立たせた。
「……は?」
「俺は小一のガキの頃からだ。俺の家は貧しくてな。両親からの暴力も酷くて居場所がなかった。学校は学校で勉強が全く面白くなかった。おかげで素行は悪くなる一方だ。初めて万引きに成功して、味をしめると何度も繰り返した。でも一度もバレずに高校まで来た。だから俺はお前みたいな素人じゃないんだよ。百戦錬磨、熟練の大泥棒さ」
両腕を左右に大きく伸ばし、目を見開く宍戸。
結城の狂気さはもはやなく、宍戸に取って代わられていた。それでも結城はまだ諦めていなかった。
「だから何よ。そんな経歴語ってどうするの。同情なんてしないわ。現に今、その素人に追い詰められているのよ」
「だからそれが素人たる所以だってんだ。お前は模範生徒の『模範性』を盗むんだろ? 今の話聞いてもそれが言えるか? 俺の『模範性』はただのハリボテだ。そんな偽物の『模範性』をお前は盗めるのか?」
「それは……」
「俺は怪盗の大先輩だからな。お前みたいな素人に騙されない。騙されていたのはお前だ」
宍戸はそう言い放つと、結城の額に人差し指を当てる。
「……え? どういうこと?」
状況を飲み込めていない人物がもう一人いた。もう痛みは和らいでいたようで、汐崎は自力で起き上がると近くの机にもたれかかった。
「ああ、訳わかんねえのはきっと汐崎先生もだろうな。汐崎先生、まだぼんやりしてるでしょうけど、そこで聞いててください」
「え、ええ」
汐崎が頷くのを確認すると再び宍戸は話を始めた。
「俺は解答—テストの答えを盗むのが得意だ。だけどお前の『怪盗』という、泥棒という側面を盗む計画には随分と苦労した」
「私を盗む計画? まさか、全て知っていたの?」
「ああ、知っていたさ。その上でここまで来た。全て俺の計算通りだ。……と言っても偶然の計算ミスのおかげでここまで来れたんだがな」
やや恥ずかしげに、宍戸は頭を掻く。結城は構わず尋ねた。
「その計算ミスっていうのは?」
「お前のことを泥棒だと知ったことだ」
「え?」
「俺は生まれも良くなければ、学もない。ただ盗みが上手な野郎だった。高校入試の会場でお前を見るまではな。それが全ての始まりだ」
× × ×
二年と一ヶ月前。
益荒男高校、入学試験当日の朝。
「よし、試験会場着いたぞ。忘れ物がないように。頑張って来い」
バスの最前席に座る引率の教員が後ろに向かってそう言うと、生徒たちが参考書を片手に降りていく。宍戸もそれに続いた。
三月の頭といえど、早朝はやはり寒かった。マフラーに顔を埋め、少しでも体を温めようと試みる。
「なあ、宍戸よ。お前、もう私立決まってんだろ。なんでこんなところ受けに来てんだよ」
バスで隣の席だったクラスメイトが声をかけてきた。特別仲が良かったわけではないが、クラスの中では親しくしていた方だった。
「別に。記念受験だけど」
「記念受験ならもっと偏差値高いところ受けろよ。ここ中堅高だぞ」
「ここの女子の制服が好みなんだよ」
「理由馬鹿かよ」
「馬鹿だよ」
白い息を吐きながら笑う彼は余裕をかましていた。それもそのはず。彼は学年一位の男。ルックスも良く、性格も良い。皆の憧れの的だった。
それほど勉強ができるなら、それこそ一番偏差値が高い所に行けばいいのにと思ったが、自宅からの距離や大学進学の際の推薦を狙って、ここのレベルを選んだらしい。
「ま、お互い頑張ろうぜ。お前も記念受験だからって手を抜くなよ? 周りにも失礼だぜ」
「わかってる」
そう答えると、彼は自分の受験番号が該当する教室へと向かって行った。
宍戸も自分の受験番号を確認する。ちょうど宍戸の中学が中間地点だったらしく、彼とは逆の方向の棟に行く必要があった。
一限目の開始までまだ時間はある。先にトイレに行こうとすると、男子トイレの手前の女子トイレから他校の女子たちが出てきた。
すれ違った瞬間、宍戸は体に電撃が走ったような感覚になった。
甘い香水の匂い。
栗色の髪。
たった数秒しか見えなかったが、忘れられないほどの綺麗な顔。
宍戸は彼女に一目惚れをしていた。
「ちょっと君」
しばらくその場に立ちっぱなしだったようで、道の邪魔になっていた。
「悪い」
「ずっと女子トイレの前に立っているとは。まさか入試の緊張につけ込んで女子生徒を狙うつもりではあるまいな?」
話しかけてきた七三分けの男は眼鏡を掛け直しながら意味のわからないことを言う。
「別にそういうわけじゃ」
どう返そうか困っていると、彼と同じ制服を来た男子生徒が現れ、
「おい白鳥、他校の生徒に絡むなって言われたろ。ごめんね! 気にしないで。こういう奴だから」
と、七三分けの男を連れて去って行った。
「下山君。僕は正しいことをしようとしているんだ。君は死ねと言われたら死ぬタイプかい?」
「はいはいわかったから」
宍戸にとって、そのような二人はどうでも良かった。
急いで先程の女子が歩いて行った先を振り返るが、もういなくなってしまっていた。
しかし、彼女の姿は宍戸の脳内に鮮明に残っていた。
この高校に来れば、再び彼女に会える。
判定はずっとDだったけれど、それは絶対に受からないというわけではない。
宍戸は試験開始までの残り時間で、できるだけ参考書の内容を叩き込もうと試みた。
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