ハナズオウ 

第5話 青の泥棒

 悪夢の新学期初日の翌日。


 今日も宍戸はまだ誰もいない朝早くから学校に来ていた。


 教室に入り、鞄を開け、教科書などを出すと何かがひらひらと床に舞い落ちた。宍戸は手に持っていた荷物を一度机に置き、落ちたものを手に取る。


 『志摩先生』と書かれた茶封筒だった。昨日、放課後に職員室へ行ったのに返し忘れていたのだ。


 職員室への偵察ついでに今から返しに行こうかと宍戸は考えた瞬間、教室の前の扉が開く。宍戸は反射的に封筒を持っている手を背中に隠した。


「あら、宍戸裕次郎君じゃない」


 汐崎はわざとらしく宍戸の名前を強調して言いながら、辺りを見渡す。


「良かった。一人ね」

「汐崎先生……」


 誰もいないことを確認した汐崎はモデルのような歩き方で宍戸に近づくと、口を宍戸の耳へ近づけた。


 朝の寒さもあり、口から盛れる吐息に昨日以上の生暖かさを感じていた。


「放課後、この教室で待ってなさい。他に生徒がいなくなったら来るわ。あなたに話さないといけないことがあるの。絶対に待っててね」

「え、どういうこと」


 あまりに意味不明な言動に、宍戸はせっかく隠した茶封筒を持った手を前に出してしまう。汐崎も至近距離にいるので、当然のその封筒に気が付いた。


「あら、その封筒どうしたの? 志摩先生って書いてるけど?」

 彼女の声色が少し変わる。まるで昨日の放課後、職員室で出会した時のような

雰囲気だ。


「あ、ち、ちょうど良かったです。昨日拾って返しそびれてて、志摩先生へ渡しておいてもらえませんか」


 宍戸は塩崎に向かって封筒を差し出す。想定外ではあったが、彼にとっては一先ず封筒を返せたことが良かった。


「きっと、志摩先生にとっても大切なものよ……ええ。私が返しておくわ」

「はい、お願いします」


 何もない床に躓きながら教室を去っていく汐崎に違和感を感じながらも、彼女がいなくなったことに宍戸は深く息を吐いて安堵した。


「ふぅー。思いの外、厳しいな……」


 汐崎と入れ替わるようにして、次は教室の後ろの扉が開く。入ってきた結城は前髪が気になるようで、宍戸の後ろの来るまで終始触り続けていた。


「ねえ、前髪変?」

「いや別に。全然おかしくないよ」

「そう。なら良かった」


 人からの評価を得て安心したのか、ようやく前髪を触るのやめた。席に着くや否や、鞄は机に置きっぱなしでスマホを触り始めた。


「てか宍戸来てたんだ。早いね」

「おう、ちょっとな」

「ちょっとって何よー。どうして? いつもこんなに早くないじゃん」

「まあ、ほら早く来たい時だってあるじゃん」

「ないよ。ギリギリまで寝てたいよ」

「でも結城だって早いじゃん。いつも俺よりちょっと早いくらいでしょ?」

「それは、早く来たい時だってあるでしょ?」

「ほらあるんじゃないか。俺にはないって言ったくせに!」

「言ったっけ」

「言ったよ」


 二人しかいない教室に静寂が訪れる。宍戸も思わぬ来客のせいで、身動きが取れない。唯一の音だった結城のスマホのスワイプ音が止まると、彼女が口を開いた。


「さっき、この教室から出てくる汐崎先生に会ったよ」

「……そうか」

「そうかじゃないでしょ。もしかして汐崎先生と密会するために珍しく早く学校に来たの? まさか昨日下山が言ってたこと本気にしてる?」


 結城は宍戸の背後から身を乗り出して、問い詰める。いつもの香水の匂いが漂ってきて、少し恥ずかしく感じた。


「違ぇよ本当に。てか昨日の下山が言ってたことって何だよ」

「ラッキースケベがあって、汐崎先生が宍戸のこと好いてるって」

「ねーよ。ラッキースケベもねえし、今時教師が生徒好きになるなんてこともねえよ。それに俺は汐崎先生じゃなくて……。なあもういいだろ」

「そ。じゃあまあいいわ。せっかく早く来たんだし小テストの勉強しましょ」


 香水の香りがしなくなる。結城は席に座り直すと、ようやく鞄を開いて古典単語帳を取り出した。


「小テスト? 今日あった?」

「宍戸は知らなくても問題ないよ。あんた大概の問題は解けるんだから小テストの心配はしなくて大丈夫。だから私に勉強教えてよ」

「俺は教えるのは専門外。問題は解くしかできないから」

「んなこと言わずにさ」


 結城が椅子と共に宍戸の横へ移動してくる。再び甘い香りが宍戸の鼻に戻ってきた。


「ほらここ。ここの活用形教えて」


 開かれたページの一番端にあるものを結城が指差す。模範解答盗みをする宍戸でも、このくらいのレベルなら簡単にわかった。


「ん、あ、ああ。えーと、そこはだな。上が連用形だから終止形だと思うぞ」

「じゃあ、次」


 たった一問だけを終えると、結城は両手で単語帳を閉じる。表紙を上にしながら膝の上に置き、上目遣いで宍戸を見てきた。


「宍戸のこと……教えて?」

「え、はあ?」


 少し頬が紅潮しているように見えるのは気のせいだろうか。ぱっちりとした大きな目も心なしか、いつもより潤んでいるように見える。


 どんな顔していいかわからない。そのような宍戸の顔に耐えきれなくなった結城が笑い出す。


「もー、宍戸は真面目過ぎ。冗談だよ。冗談」

「……からかうなよ」


 安心と同時に残念さも感じ、宍戸は結城から目を逸らした。しかし結城は構わずに宍戸の頬を突くなど絡みを続けた。


「だって、宍戸が本当に汐崎先生が気になってるっぽかったから。ちょっと試してみようと」

「試さなくていいよ」

「おっはよーうっ」


 元気溌溂な声と同時に勢いよく後ろの扉が開く。


「……て、あれ二人だけ? あ、ごめん邪魔した?」


 見た目の割に気が遣える下山は、わざわざ教室を出ようとしていたので結城がそれを止める。


「いいよ、大丈夫だよ」


 なら良かった、と下山は自分の席に向かう。切り替えの速さも彼の取り柄だと宍戸は思っているが、最近はただ単純なだけかもしれないとも思っている。


「ちょっと面白い話があるぞ。例の噂に関する新情報だ」


 下山は席に着くなり、大きなネタを持ってきた新人記者のような顔をした。


「例の噂? あの泥棒のやつか?」

「そうそれ、なんと女なんだってよ!」


 滾るぜ、と拳を握る下山。宍戸も噂が自分についてじゃなくて安心、と言うように胸を撫で下ろした。


 結城はその下山を完全無視し、自分の感想を述べた。


「やっぱりこの時代の女は強いわねー。峰不二子の後継に相応しいわ」

「でもそんな大層なもの盗んでないだろ。後継の「こ」の字にも満たねえわ」

「それにしても、何盗んでんだろうな。この学校にも町にも大して盗む価値がありそうなものはないと思うけど」


 同じ泥棒として、単純に宍戸は気になった。


「そうねえ、お金とか宝石盗んでるなら事件レベルだし、ニュースで報道されそうだもんね。学校でもその話題が出回りそうだし。実際噂になってるけど泥棒がいるってくらいだもんね」

「だよなあ。よくわかんねえ泥棒さんだよ。でも、女泥棒ってだけで興奮するよな? なあ宍戸」

「まあ、最近噂が出てきたってことは、作戦に穴だらけのぽっと出泥棒なんだろ。すぐ捕まっちまうよ」


 先程の結城同様に宍戸は下山をスルーした宍戸だが、彼は全く気にしていない、否、気づいていないようで宍戸の肩を叩く。


「なんだ、お前、まるで自分は上級者みたいな言い方だな」

「はあ? 違えよ! ほら、俺ってやっぱり学年一位の男なわけじゃん? 俺なら完璧な計画で完全犯罪を華麗に決めてやるって話よ」

「……やってみるか? 完全犯罪」


 緊迫したドラマのシーンのように、下山は低く渋い声を出す。宍戸は今度はそのおふざけに乗ろうかと思ったが面倒くさくなってやめた。


「しねえよ。少なくともお前とは絶対しない。いやお前とじゃなくてもしない」

「……しないの?」


 と、なぜか今度は結城が下山が作った流れに乗った。


「しないしない」


 宍戸は手を振って断る。


「悪い男って、かっこいいと思うよ。私は好き」

「くっ……いや、結城にかっこいいと言われようとしない! そもそも悪い男の悪いって完全犯罪じゃないと思うのよ。ちょっとルール破るくらいのやつでしょ。悪さの大きさが桁違いなわけ」

「でかい男になれよ!」


 下山が力強く宍戸の背中に平手打ちを決める。


「ならなくていいよ!」


 宍戸は力強く下山の背中に平手打ちを決めた。

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