第3話 白鳥の湖
汐崎の一挙手一投足に男子どころか女子も釘付けになる。
彼女が教壇に立つと、志摩が自己紹介を促した。
「皆さん初めまして。国語科の汐崎と申します。この学校のことはまだわからないことばかりなので、色々と教えてくださいね。それでは一年間よろしく」
一礼と同時にクラスは拍手喝采。
誰もが美人の教師が来たことに心を躍らせていた。
「おー!」
「めちゃくちゃ美人!」
「色々教えたい!」
「教えられたい!」
他のクラスもホームルームをしているということもあり、このク
ラスだけ騒ぐわけにもいかないだろう。志摩は「教えられたい」と
言った下山の頭をバインダーで叩くと生徒たちを注意した。
「うるさい。騒ぐなって。三十分後から始業式だ。トイレとか済ませてなるべく早く体育館に集合しておけ。いいな? はい、ホームルーム終了」
そう言い残すと志摩はそそくさと教室を出て行った。生徒らも次々に廊下へと出ていく。
汐崎も前の扉から出た志摩へ続こうとしたが、扉に手をかけたところで立ち止まる。そして振り返り、宍戸に向けて投げキッスをした。
「な、ちょ!」
クラスに残っている者の多くが見逃さなかった。
宍戸が汐崎を問い詰めようとする前に、クラスメイトたちが宍戸の周りに寄って来て逆に問い詰められる形になった。
汐崎はそれを好機に、静かに教室を去って行った。
「くそ!」
「くそはこっちのセリフだ! お前あれなんだ!」
「そうよ! どういうことよ!」
下山と結城を筆頭に尋問が始まる。
「説明しろよ。なんでお前だけ投げキッスされてんだよ」
「おかしいでしょ。どうしてあの人が宍戸に投げキッスするの!」
「お、お、俺だってわからねえよ!」
「とぼけないで!」
「今朝はなんか様子おかしかったもんな。え? 俺たちの知らない
ところでラッキースケベでもあったか? そんで汐崎先生もお前
のことが好きになってみたいな?」
「だから違うって!」
息継ぎもせず質問攻めをする下山を声量で制すと、彼はようやく諦めたようだった。
「ったく……、次また怪しかったら吐くまで問い詰めるからな!」
さすがに結城もそれ以上続けることはなく、宍戸の机から離れる。
「不祥事で停学になる前に私たちに相談するのよ」
「行こうぜ結城」
「ええ」
下山と結城が教室を出て行くと、他の生徒もそれに続いて教室を
去って行き、宍戸の周囲には誰もいなくなっていた。
教室が静かになり、小さなため息さえも大きく聞こえる。
「もう最悪だ。あの汐崎とかいう女のせいで全てが狂う。……ん?」
宍戸の視線の先にある教卓の上に小さな茶封筒が一つだけ置かれていた。何の封筒なのか気になった宍戸は、それを手に取る。
表には『志摩先生』と書かれていることから、きっと彼の忘れ物
だろうと考えた。
「全くドジだなあの先生は。こんな大事そうな封筒を置きっぱなし
にして行くなんて。本当に俺に百点を取らせないようなテスト作
ってんだろうか。テストのこと考えるとあの女を思い出す……。あ
ー。どうすればいいんだろ」
嫌なことを思い出し、宍戸は頭を掻きむしる。その刹那、椅子の
脚と床が擦れる音が静かな教室に響き渡った。
「うわ、わあわあ!」
あまりの驚きに思わず変な声が出てしまう。
宍戸が振り返ると、黒縁メガネに髪を七三に分けた男が立っていた。
「なあ、宍戸君」
「どどど、どうした? てかいたの? てか誰? もしかして今の聞いてた?」
「一度にたくさん質問をするな……」
そのセリフにデジャブを感じつつ、近づいてくるその男に合わせ
て宍戸も後退した。しかしすぐ黒板に阻まれてしまう。
「まあ、僕は処理できますけどね。僕は白鳥。白鳥聡。この二年間ずっと2位で君の背中を追い続けて来た者だ」
「へー……知らなかった。初めましてだよな?」
「ああ。その通りだ。初めまして」
と、白鳥は律儀に礼をするので宍戸も礼を返す。
「あ、初めまして」
「そして、今の宍戸君のひとりごとだけど……ちゃんと全部聞こえてたよ」
白鳥は人差し指で眼鏡を押し上げる。教室の光が彼のメガネに反射し、まるで光っているようだった。
相手は学年二位の男。侮っては行けないと宍戸は自分に言い聞かせた。
「まじか……全部忘れてくれないか?」
「無理だと言ったら?」
「ひたすら懇願するしかない」
「なるほど……。でも、特に宍戸君が不利になるような発言はしていなかったように思うが」
冷静沈着な白鳥は、丁寧に宍戸の状況を解説する。
宍戸もなるべく落ち着いて彼の目的を読もうとするが、全くわからずにいた。今は彼に合わせ、ボロを出さないように努めるしかなかった。
「それも、そうだな。それならお前に頭下げる必要もないな」
大袈裟に胸を撫で下ろしてみる。それを見た白鳥はわざとらしく宍戸から視線を外し、
「強いて言えば……『あの女』か。汐崎先生のことだろ。あの投げキッスを見れば、ここに彼女が来る以前に宍戸君と何かしらの接触があったことはわかる。本当に何もないならば、あの投げキッスは不自然だ……」
と今度は宍戸に視線を戻した。
これ以上、白鳥と会話を続けるのは宍戸にとって危険だった。
「なあ、そろそろ体育館行こうぜ? まだ時間はあるけど、早めに来いって言われてるし」
「それもだ宍戸君。さっきから何かを隠そうとしているその様子。不自然だ」
「何が言いたい」
宍戸の声音が変わり、教室の空気が重くなる。
「結城君の言っていた泥棒……君だろ。少なくとも僕はそう考えてる」
「は? あんまり適当言うなよ」
「まあ聞きなよ。この噂、今日出た噂じゃないんだよ。実は一週間ほど前から出回っている噂だ。宍戸君は今日初めて知ったようだが……。僕は優等生なんでね、春休みも学校に来て勉強をしていたんだ」
「優等生は自分で優等生って言わねえよ」
宍戸の焦る気持ちを見透かしたように、白鳥は嘲笑する。
「だから聞けって。一週間前くらいからだよ。やけに職員室内の空気がそわそわしているんだ。そして心なしか職員室内にいる先生が増えている。まるで生徒たちを監視するように。泥棒の噂が出て来たのと同じタイミングだ。これを泥棒と結びつけるのは、いささか早計かもしれない。だけどね、僕は考えたんだ」
「ほう……その2位の頭でどう考えた」
「傲るなよ。その1位は本当に君の実力だろうか。仮に学校内に泥棒がいたとして、一体どんな盗みを働くのか。僕はここ数ヶ月の市内、県内の盗難事件を調べた。皆、犯人は逮捕されており、そしてこの学校の生徒でなければここの卒業生でもない。だが現に職員室の守備は固くなっている。何かを取られないように。いったい何を? ……そう、テストの模範解答だ。そして君の成績。百点しか取れない男。宍戸君が犯人ではないならば、他にも全て百点を取る存在がいるはずだ」
犯人を問い詰めるような白鳥の立ち振る舞いに、宍戸は腹が立ってきた。苛つ
いているのが自分でもわかる。
「仮に泥棒がいたらの話だろう。所詮は噂だ。それに、俺が一年の頃から模範解答を盗み続けているのなら、先生たちも繰り返される解答の紛失を不審がり、とっくの前に対策を練っているはずだ。どうしてこのタイミングなんだ?」
「それはわからない。だから絶対に宍戸君だという証拠も僕は持っていない。だが、今回のテストでわかるだろう。今のままでは職員室に盗みに入るのは難しい。君は実力で戦わないといけないな」
「くそが」
宍戸が教室を出ようとすると、白鳥の言葉が宍戸の足を止める。
「宍戸君は授業中もよく質問に正解すると聞く。もちろん全ての問題ではないが、躊躇いなく正解できるあたり地頭は良いのだろう。正々堂々勝負できることを楽しみにしているよ」
「うるせえよ」
「宍戸君は結城君のことが好きだろう」
「は?」
突然変わった話題に素っ頓狂な声が出てしまった。
「見ればわかる。志摩先生にくっつく結城君を見ている時の顔、実に滑稽だった。彼女の心も自分の物にできるといいね。どんなに凄腕の怪盗でも女性のハートを盗むのはさぞ骨が折れるだろう」
「伊達に2位じゃねえな」
随分危険な人物と同じクラスになってしまったことを悔やみながら、今度こそ宍戸は廊下に出る。
教室に残っているのは白鳥だけとなった。
彼は自分の机から茶封筒を取り出し、制服の内ポケットにしまう。
その封筒には『白鳥聡』と書かれていた。
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