外伝 婚約者の慧眼 ~side アイリス~

 ヨトゥン教団のアジトの掃討を終えたその日、オルトとクライドは、エルドリアのとある貴族の屋敷に身を寄せていた。


「ジーク様、クライド、本日はお疲れ様でした。部屋を用意しておきましたから、ゆっくりと戦いの疲れを癒してください」

「ああ」


 赤い髪の少女の言葉に素っ気なく返すと、クライドはそそくさとその場から立ち去ってしまった。


「あ……」


 少女は、その背中を寂しそうな表情で見送る。


「すまない、ミレイユ。初めての戦場であいつも疲れているんだ」


 ミレイユはクライドの婚約者である。

 と言っても、つい最近両家の意向で決まった関係であるため、二人の仲はまだぎこちない。

 それでもミレイユは、クライドのことを知ろうと努力していたが、その心遣いは今のクライドには届かない。


「大丈夫です。機会はまだありますし、彼のことはまだよく分からないけど、焦る必要はないですから」


 ミレイユとしても、よく知らない相手との婚約は不安だったが、彼女の実家ラフィリア家は跡取りの問題を抱えている。

 息子の親友であるフローレンス男爵の長子と、孫娘に領地を継がせたいというラフィリア伯爵の思惑がそこに絡んでいた。


「剣の稽古に行ってきます。ジーク様はアイリス様に早く顔を見せてあげてください」


 ミレイユはそう言って、そそくさとその場を去って行く。


「ふむ……また、面白そうなことになってるみたいだな」


 オルトは、ある程度この家の事情に通じている。

 ミレイユの祖父、ラフィリア伯爵の思惑はもちろんのこと、彼女の叔父が伯爵位を狙っていること、そして、ミレイユとその婚約者の存在を疎ましく思っていることも。


「まあ良い。今は、愛しの婚約者に会いに行くとしようか」


 他家のお家事情にも興味はあるが、今は婚約者のアイリスだ。

 なにせ、あの男(ジーク)は大層、彼女を大切に想っていた。

 そんな彼女の心を独占するのは、彼にとってこの上ない楽しみであるからだ。


*


「あら。お疲れジーク。今回の遠征はもう終わったのかしら」


 オルトが部屋に戻ると、水色の髪の少女がベッドでくつろいでいた。

 どうやら、何か本を読んでいたようだ。


「ああ。父上がいるんだ。〝加護なし〟の集団なんて、敵じゃないさ」

「そう……」


 アイリスは優雅な所作で本を読み進める。

 オルトも、いつの間にか部屋にいたアイリスに驚く様子も見せず、側にあったソファに腰を掛ける。


(改めて見るといい女だな……)


 アイリスは有力貴族エインズワース侯爵家の長女だ。

 サラサラとした美しい長髪、どこか妖艶さを感じるクールな顔立ち、均整の取れたすらりとしたスタイル、まだ十二だがそれでも異性を虜にする美しさを誇っている。


 オルトはまだ彼女に手は出していないが、隙さえあればその身も心も虜にせんと欲望を研ぎ澄ましていた。


(プライドは高く、普段の態度は素っ気ないが、言動の端々からジークに惚れていることは明らかだ。僕がボロさえ出さなければ、きっと簡単に堕とせるだろう。まったく、こんないい女を譲ってくれるなんて、兄様は気の利く人だよ)


 心の中でオルトは笑っていた。

 大貴族の後継者という地位だけでなく、誰もが羨む美貌の婚約者まで手に入れた。

 これまでの最悪の人生が一転、勝ち組になったことが愉快でたまらない。


「ねえ、アイリス。僕らは婚約者だよね?」

「……そうね」

「僕は君のことを愛している。だから、そろそろ僕らも次のステップに行かないかい?」


 オルトは押し切ることにした。


 アイリスは心底、ジークに惚れている。

 ジークと同じ顔の自分が迫れば、あっさり受け入れてくれるだろう。

 オルトはそう高をくくっていた。


「………………うーん」


 しかし、アイリスの反応は思わしくなかった。

 オルトの目論見では、今の言葉でアイリスは舞い上がって、顔を赤くして自分に身体を委ねるものだと思っていた。

 だというのにアイリスはその様な素振りを欠片も見せず、じーっとオルトを見つめていた。


「……ねえ。一つ尋ねて良いかしら?」

「な、何だい?」

「どうして……〝僕〟なのかしら?」

「え……?」


 オルトは何の事か分からなかった。

 一人称については父に確認した。ジークの一人称は基本的に〝僕〟だった。


(カマを掛けているのか? それとも、本当にこの女の前では一人称が変わっているのか?)


 オルトは思案する。

 父は徹底して、俺にジークとしての振る舞いを叩き込んだ。

 そのおかげで、母や屋敷の人間、親友のクライドはオルトの入れ替わりに気付かなかった。


(そうだ。折角ここまでうまくいったんだ。そんな一人称如きで台無しにしてたまるか)


 心の中で苛立ちながら、オルトはこの場を乗り切ろうとする。


「あ、ああ。その……貴族として、君の婚約者として相応しい振る舞いを意識しようと思ってね」


 実際、自分のことを俺と呼称する貴族家の男子は少数だ。

 アイリスへの配慮も欠いていない。言い訳としては問題ないはずだ。


「そう。それは嬉しい心遣いだわ」


 そう言い残すと、アイリスは本を閉じて部屋を後にする。


「とりあえず、私は自分の部屋に戻るわ」

「あ、ああ……」


 「さっきの話の続きは?」などとは聞ける雰囲気ではなかった。

 オルトはアイリスが去るのを黙って見送ることにした。


「まさかあの女、気付いてないよな? チョロい女だと思ってたが、やはりここは慎重に事を運ぶとしよう」


 オルトとしては、入れ替わりがバレることは何としても避けたい。

 改めて気を引き締めることにする。


「漠然と考えていた例の計画、念のために押し進めておくか」


 多少の誤算はあれど、致命的なミスにはなっていないはずだ。

 オルトは心を鎮めながら、頭に湧いた邪悪な計画を練り上げることにした。


*


 一方、オルトと別れたアイリスは、一つの疑念を抱いていた。


「絶対におかしい……」


 アイリスは〝ジーク〟に対して強烈な違和感を抱いていた。


 ――どうして私の前では〝僕〟なのかしら?


 アイリスとジークの仲は、親同士が決めたものだ。

 しかし、アイリス自身は幼い頃から、ジークに想いを寄せていた。


 そして、そんな彼が幼馴染のクライドとリヴィエラの前では自分を〝俺〟と呼び、砕けた態度で接していた。

 そのことがアイリスには気に入らなかった。


 ――私に対しても、あの二人に接しているようにして!!


 自分に対して丁寧に接するジークに、そうわがままを言った。


「だから、ジークは〝俺〟なのよ……」


 その出来事は、二人の関係が一歩前に進んだことの証だ。

 なのに〝ジーク〟はその出来事を思い出す素振りも見せなかった。


 最初は些細な違和感だった。


「ジークと話してるはずなのに、どうしてかドキドキしなかった」


 ずっとジークと話す時は、心のどこかで緊張していた。

 なのに、ある時それを感じなくなった。

 きっと、彼との関係に慣れ始めたのだろうと、その時はそう思っていた。


「でも、ずっと違和感は拭えなくて、極めつけはさっきの出来事よ……」


 ジークが心変わりしたのか、自分が心変わりしたのか、状況はよく分からないけどこのモヤモヤをどうにかしたい。

 その原因をはっきりさせたい。アイリスはそう考えていた。


 オルトとジークの入れ替わりについて、彼女は知らない。

 しかし、心のどこかで二人が入れ替わったことで生まれた、わずかな差異を感じ取っていた。




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