その10-1

「今日は、の稽古があるから、塾はなしでぇ。それで、稽古の後は、居合いの型の練習でぇ」


 ちぇっ、と龍之介は歩きながらつま先で道路を蹴飛ばすようにした。


 もう、受験の詰めが間近で、一分たりとも無駄になどしていられないのに、今日は龍之介の祖父からの呼び出しがかかって、塾はサボリ。

 その後も、に付き合って、とてもではないが、が眠りにつくまで、勉強の“べ”の字も触れない状態になりそうだった。


 龍之介は自分の祖父を嫌ってはいないが、未だ、時代錯誤的な頭の固さがあって、



「稽古できちんと鍛えない者は菊川家の一員にしてならず!鍛錬あるのみ」



と豪語して止まないのだ。


 それだから、龍之介が年端もいかないうちから、龍之介はに厳しく鍛錬されて、小学校や中学校時代は、よく友達と遊ぶ約束もできずに、すぐに家に帰されたものだった。


 龍之介の父親も、よくそんな環境で育っていて、普通の一般企業の会社員などに就職できたものである。


 毎日、毎日、受験勉強をして息抜きが欲しいなぁ…――と感じることはたくさんある。それで、暇つぶしに体を動かすことは嫌ではない。

 でも、龍之介の祖父が一緒になると、ただの軽い運動――で済まされたことはない。一つでも龍之介が間違えたら、完全に全てやりこなせるまで稽古場から帰ることもままならない。


 今日、半日以上だったら、英語の復習ができるのにぃ…――女々しいと、龍之介の祖父に怒鳴られようが、今の龍之介にはの稽古よりも、一分一秒の単語を覚える方が先決なのである。


 おまけに、この間の模試の結果が期待できたようなものでもなく、哲学部での標準で評価がBだった。だが、龍之介は哲学部に行きたくて、大学を決めたんじゃない。


 龍之介の祖父ははなから反対しているが、龍之介は獣医学部に行きたくて北大に志願しているのである。



「そんなもの、役にも立たない職業ではないかっ」



 龍之介の志望校がにバレた時に、また執拗なほどに連呼された言葉だった。今の時代、お稽古だけして人生が終わるのでもなし、龍之介は獣医なる夢にむかってまっしぐらなのである。


「―――あれ? 廉だ。それに、柴岬もいるなぁ」


 通りの向こう側で、見慣れた背格好をした二人が歩いてるのが見える。


「おおい――」


 手を上げて、廉を呼び止めようとした龍之介の動きが、そこで止まっていた。


「なんだ――?」


 廉とアイラが足を止めた先に、なんだかタチの悪そうな若い男達が道を塞いでいるようにみえる。


「なに――?」


 龍之介は事情が判らず、なんとなく顔をしかめていた。


 その視界の前で、廉とアイラの後ろからも若い男達が固まって歩いてくる――というより、廉とアイラを取り囲むようにしているのである。


「なんだ――アイツら――」


 どうも、危なそうな雰囲気に見えるのは龍之介の気のせいなのだろうか。

 でも、あの若い男達の連中が廉とアイラを取り囲んで、ゾロゾロと歩き出していく。先頭にいる男は、龍之介の視界にも入ってくる、金属バットを持ち歩いていた。


「なんだ、アイツらっ――」


 龍之介はどうも胸騒ぎが止まらず、タッと、通りを駆け出していた――



* * *



 昨日の事情聴取に出向く羽目になったアイラと廉は、仕方なく、放課後になると佐々木の元にやってきていた。佐々木に通されて、取調室ではなく、小さな来客用の室内に通された二人は、一応、規則通りに質問する佐々木を前に、ありきたりの返答を返していた。


「昨日は、本当に悪かったね。二人には、感謝してもしきれないくらいだ。ありがとう」


 スッ、と座ったままでまず頭を下げた佐々木は、それから静かに顔を上げた。


「アイラちゃん……、怪我は大丈夫かな。その傷、大分、悪いかい?」

「私の美肌に傷が残ったら、佐々木さん、整形代、請求するわよ」


 ちょっと顔を曇らせて佐々木はまだアイラの額のところを見ていた。


 昨夜は廉がきちんと手当てを済ませてくれたのだが、今朝、起きたアイラはガーゼが大袈裟すぎるというので、バンソウコウに張り替えたのだった。

 それで、額の所には不細工な(アイラ曰く)茶色のバンソウコウがはられているのである。


「君の方も、大丈夫かな? 傷は深かったかい」

「それほどでも」


 淡々とした返事をする廉を、佐々木はじっと見ているが、二人に向き直って、またペコッと軽く頭を下げていた。


「本当にありがとう。二人にはとても感謝しているよ」


 そうこうして、ありきたりの事情聴取も終え、そこから解放されて署を後にした二人は、アイラの仕事があるので、新宿に向かい出していたのだった。


「腕はどうなの?」

「まあ、一応、まだ動いてるし」


 律儀なことに、付き添いとなった廉は、アイラの仕事場まで見送るらしく、署を後にしてもまだアイラと一緒に歩いていた。


 そんな二人の歩調がピタッと止まった。


 目線の前に、若い男が5~6人、アイラと廉の行く手を塞いでいるのである。横のガードレールに腰を下ろしている男は金属バットを片手に、コツン、コツンとそれを地面に叩きつけていた。


 後ろで動く気配を察して、スッ、と咄嗟に後ろに目をやったアイラの前で、ゆっくりと通りから出てくる若い男達がいる。


「囲まれたわ――」


 廉もそれに気付いていた。サッと後ろに視線をやった先では、同じように5~6人程が廉とアイラを取り囲むようにして近づいてきている。


「昨日の今日で、これなの」

「どういうことだ?」

「知らないわよ。でも、テクノロジーの進歩は便利だけど、プライバシーに欠けるわよね。どうせ、シャメでも出回ってるんでしょうよ。話が早いこと」


 口早にそれを言い捨てるアイラの表情が警戒を強めていた。


 男達がゆっくりと近づいてきて、アイラと廉を取り囲むようにしていく。


「そこの二人ぃ。仲いいねぇ。ちょっと俺達と付き合わない?」

「嫌よ」

「へえぇ、俺たちに口答えするんだ」

「度胸ある女じゃん」

「そうそう。バカじゃねー」


 ケラケラと、あからさまに小馬鹿にするように男達がクチャクチャと笑う。


「いい気になんなよ。シメるぞ」


 ドスを効かせたように後ろで吠える男が、ドンッとアイラの背中を足で蹴飛ばすようにする。


 スッ、と廉がアイラの肩を囲ってすぐに自分の方に抱き寄せた。


「やるやるぅ。お熱いことでぇ」

「見せつけんなよなぁ。ムカつく奴っ」

「男もシメないと、気が済まないぜ。なに、こいつ。ヒーロー気取りじゃん」

「やっぱ、メッタ撃ちじゃねー」


 くだらないことを自分たちの良いように言い合っているアホ共を前に、アイラはその冷たい凍りつきそうな――それでいて、冷静な視線をサッと周囲に配らせ、隣の廉に口早に呟きを漏らす。


「そっちの面倒まで見きれないから、全速力で逃げるのよ」


 グイッと、廉の腕が素早くアイラの腕を掴んでいた。


「ダメだ。この人数を相手にするなんて」

「一人ならまだ逃げ切れるわ」

「判っている。でも、ダメだ」

「離してよ」


 口を開けずに唇だけで、隣の廉にしか聞こえないような声でアイラも廉も喋っている。


「ダメだよ」

「いい加減にしてよ。隙がなくなるわ」

「こうなったら、なんとかするしかないだろう」

「できるわけないでしょう」


 アイラが見えないように腕を振り払おうとするが、廉はしっかりとその腕を掴んだまま離しはしない。

 一人なら逃げ切れる可能性もあるが、だからと言って、こんな囲まれた状態でアイラを一人残して逃げ去ることなどできるはずもない。


 アイラのすぐ横に男が来て、廉のすぐ横にも男が近寄ってきた。


 そして後ろを張るようにして、固まっていく気配が感じられる。


 そのまま路地裏に連れて行かれて前は突き当たり。たった一つの出入り口を塞ぐように4人がそこに立ち塞ぎ出した

 カツン、カツンと耳障りに、アイラと廉の前に立っている男が自分の持っているバットを地面に突付いている。


「さーて、どうしようか。そこの女やり損なったって話じゃん。それも、ポリ交に邪魔されたって言うしな」

「やーっぱり、女からシメたら?」

「そうそう」


 にやにやと嫌らしい笑みを浮かべて、こんなふざけたことをしながら、その顔が全く悪びれてない。ゲームの続きでもしているかのような態度だった。


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