鯨のうた
私は愛する人を食べました。彼は鯨でした。それは、それは美しい鯨でした。彼は人を食べたことがあると口にした。大きいからね、人を丸呑みしたことがある。だから人に食べられても仕方がない、と。これは償いのようなものなんだよ、と。何かを食べたら、そのぶん、その命を抗うために使う。自分の命が誰かの命となる。それに選ばれたのがたまたま恋人であった私だけのこと。
人を殺して、食べてしまった鯨は罪深いのだろうか? 海を汚し、干上がり、傷つけていった人類の罪と比べて。彼は肉体と命をすべて差し出さなくてはいけないことをしてしまったのだろうか。
神様からの天罰を下されたという。鯨のまま、海のなかを揺蕩い、歌い続けて、誰かがその歌を聞いてくれることだけを望んでいた彼は、けれど寂しかったのだと口にした。だから人を食べた。食べて、その孤独を紛らわせて、罪深さに神様は彼を人に変え、人の世界へと放つった。人類が死んでしまう前に自分の命を差し出すチャンスを与えたのだという。
人類は愚かにも滅びようとしていた。世界は涸れはててしまい、わたしたちは機械に守られた箱庭に暮らしていた。私はそのなかでぬくぬくと作られた楽園の甘さを味わって生きいれればよかった。けれどふとした拍子に心が、野生に戻ってしまったのだ。本能だ。ただただ飼いならされて殺しも、奪うこともないものに飽き飽きしてしまったのだ。私は誰かに暴力を振るいたい、奪いたい、殺したい。そうだ。私は人という名の動物だったのだ。だからわたしはその本能に従い楽園を出た。外にいけば、きっとなにかがあると信じていたのだ。私はあなたのようね。海から人の世界へときた愚かな鯨。けれどそこにはなにもなく、希望も絶望もなくて、わたしはただただ飢えて死ぬだけだった。悲しくなった。辛くもなかった。今までは。あなたが私の前にやってきて、食べてもいいよ、と口にするまでは。あなたは慈愛深い目をして私の前に倒れた。大きな鯨。海の匂いと冷たさを纏わせて。私の前で死んでしまった鯨。私のための食べ物。与えられるなんてもう飽き飽きしていたのに私はあなたの尊さに泣きながらあなたを食べた。おいしい、塩と血と泥の味がする。私は生涯それを忘れない。いつか私も誰かのためにこの身を差し出すのだ。だって、私はあなたを食べてしまったから。私の鯨。愚かな私を許してくれた鯨。あなたの命を繋ぐために私はなにもない大地を進む。いつか私を食べてくれる人を求めて。
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