なつかしい匂い

 こんな箱、いつ、手に入れたんだろう。


 恋人と暮らすために引っ越した、そこまではよかった。

あれこれと買うもの、荷物がいっぱいになってひぇーとわたしは辟易した。それもまぁ楽しみと思えばよかった。そう、楽しみと思えば……引っ越し当日をまさか一人で迎えることになるとは思わなかったけど。

日当たりのいい家。これからわたしたちの家。

 恋人は仕事のせいで帰ってこない。わたしは独りぼっちでせっせっと作業をする。

 そのなかでわたしの荷物に見慣れない小箱を見つけた。

 木で出来たそれは丁寧に絵の具を塗られて、美しい石をちりばめた、手製のものだ。

 貝殻もついている。

 きらきらときれい。

 ついわたしは、それを揺らしてみた。

 からん、からん。

 なにかある。

 そして潮騒の匂い。

 これ、いつ荷物にいれたの?

 それにわたしはこんなものを持っていた? 

覚えはないのに。

 開けようか。

 わたしのなかでざわざわとした気持ちが生まれた。

 だめ、そんなことしちゃいけない。

 こころのどこかで叫ぶわたしがいた。

 どうして、だって、これを開けたら、開けたら? あれ、なにを思い浮かべようとしたのだろう?


 お父さん、お母さんに連絡して確認しよう。どうしてこんな箱をいれていたのかって。

 そこでわたしは気が付いた。

 あれ、連絡先は? 電話番号は? わたしのお父さんとお母さんの思い出は? ちっとも浮かばない。

 あれ、あれ、あれ?


 小箱がある。

 わたしは震えながら箱に手をとっていた。懐かしいと思ったそれがわたしの記憶を呼び覚ましてくれるんだと思ったのだ


 からん、と箱を開ける。

 なかから出てきたのは尾ひれだった。

 からからに乾いた、骨――わたしのひれだ。


 わたしは、そうだ思い出した。

 わたしはペンギンだった。水族館にいて、いつも仲間たちとえっちらおっちら歩いていて、小さな作られた海で泳いでた。

水族館にいつもやってくる彼に恋をした。彼は海を研究していて、そのテーマにペンギンを選んだ。

 わたしたちのことを見ては何か書いている彼にわたしは恋をした。他のペンギンたちに声をかけられても無視をして、ずっと、ずっと見ていた。

 彼が来るたびに、いつもいつも。

 そうして彼が口にした


 きみたちの願いを叶えるものができた。

 ペンギンのひれを切って、人にする――わたしは実験の第一号。

 彼は口にしていた。君が思い出したときペンギンに戻ってもいいよ、けど、それまでは僕の傍にいてね。

 わたしが見ているように、あなたもわたしのことをいつもいつも見てくれていたのね。



 ドアが開く音がした彼が戻ってきたのだ。わたしは箱にふたをして、それを押し入れにしまい込む。

 そしらぬふりをしてわたしはひれのかわりに長いながい腕をふる。

 彼からは懐かしい海の匂いがした。

 それで十分。

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