ある物語


 やぁ、親愛なるわが友、それで、何を知りたいんだい?

 彼はそう口にして微笑んだ。


 わたしは目覚めたとき、動悸の激しさにここは天国かと本気で思った。しかし、灰色の天井に、白いベッド、そして

 ああ、ここは見慣れたわたしの部屋だ。

 私の名前は

 そこで思考が落ちる。

 

「やぁ、ワトソンくん、寝坊かい?」

 私が立っていた。

 見慣れた部屋だ。テーブルとイス。そして暖炉――夫人の作ってくれたあたたかな目玉焼きとトースト。ああ、紅茶もあるね。

 そしていつも私よりも遅いはずの友人は優雅に新聞を飲んでいる。彼は

「シャーロック、もう起きていたのかい」

 そうだ。彼の名だ。そして私の名前。


 私たちは探偵とその助手として数々の事件に挑戦し、解決してきた。

 最高の友人にして、変人のシャーロックはその日は珍しく普通に食事を食べている。謎を解くことが大好きで、中毒といってもいい彼は刺激が少ないと阿片を口にすることもたびたびあるのに顔色がとてもいい。

 私たちは朝のひとときを過ごす。

 と

 扉を大きく叩く音がする。

「はじまったようだね、我が友」

「なんだい。何が……夫人!」

 ドアを開けて血まみれの夫人がふらふらと入ってくる。灰色の顔、干からびた手足、えぐれた肉。

 虚ろの顔でふらふらとやってくる。私を殺そうと

 夫人を蹴り倒し、ステッキで貫いたのはシャーロックだった。

「逃げよう!」

 彼の声に、手に、私は息を飲む。

 駆けだす。

 階段を登り、外へと出ると地獄が広がっている。血まみれの人々が立ち、襲い、殺し合っている。

 バケモノたちの声が轟き、火が燃え上がる。


「ゾンビだ!」

「きゃあ」

「死んでしまう」


 火。私を焼く。

 炎。私は灰になる。

 血。突き刺さる。

 地獄。私はゾンビの腕に殺された。


 私は、以前とても悲しいことがあった。そうだ。冷たい水がはじけ飛ぶ。 


 私は目覚めた。動悸が激しい。ここは地獄だろうか? 私は息を殺し、眩暈を覚える。なにかひどい地獄のなかにいた気がしたが。見慣れた灰色の天井。ここは私の部屋だ。ふらふらと立ち上がる

 私の名前は


「やぁワトソン、寝坊かい?」

 私の名はワトソンだ。そして目の前にいる私の最愛の友人にして名探偵、シャーロック・ホームズ。

 なんのことはない代わり映えのしない一日のはじまりだ。夫人の用意してくれたトーストと卵焼き、紅茶もある。ああ、空腹だ。

 椅子に腰かけて食べようとして

「怖い夢を見たんだ、ホームズ」

「へぇ」

「どうしたんだい」

「合格だ。君は、まだ」

「何の話だい」

 私は紅茶を飲みながら笑う。トーストにバターを塗って


 窓ガラスが割れて何かが入ってきた。――黒い靄だ。

黒い靄は人型をしていてぐるぐると唸り上げる。私へと襲い掛かる。

「っ」

 喉が噛みつかれる。



 冷たい。――私の血

 苦しい。――肉が食われていく

 悲鳴が――私のだ

 途方もなく深い――闇だ


 冷たい水が弾けて世界は暗く、私は悲鳴をあげた。


 とてもかなしいことがあった。そうだ。そのときから私は


 息をするのを忘れて私は目覚める。天井を睨みつけて、汗だくのまま私は苦しみに身もだえる。なにかひどい夢を見た。ここは私の世界なのだろうか? 曖昧な記憶だが、私は覚えている。恐ろしい世界で私は何度も死んでいく。殺されていく。

 ホームズ。

 彼はいつも私のことを見てこうつぶやく


 ――すべての答えは目の前だよ。我が友

 答えとは?


 ホームズがいつものようにソファにいるはず。私は立ち上がり見る。荒れ果てた部屋、灰色の世界。黒く濁っている。ああ、そうだ、ホームズ。君は。私を残して。モリアーティとともに滝のなかに落ちた。死んだと告げられて私は悲しかった。苦しかった。薬をいくつも飲んだ。麻薬を吸い、君の気持ちになるためにソファに座り、君のように祈るように推理した。君の気持ちは気持ちの気持ちは、気持ちは


 ここは地獄だ。私はゆえに本を書いている。その本ではホームズ、君は生き返ったんだ。

 やぁ、ホームズ。


「やぁ、ワトソンくん」

 ひび割れた鏡の前に僕は立って笑いかける。

 いくつもの本。

 ああ、これはなんのものだろう?

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