古い人魚

そこは古いものだけが集められている。

 金を運ぶ燕、長靴をはいた猫、割れた鏡……すべてが過去の遺産だ。

 この御伽噺の美術館には役目を終えた者たちがひっそりと眠っている。それを管理するのはメリジューヌの一人息子だ。

 名をジャン・ジャルル・メリジューヌ。

 御伽噺を紡ぐ者たちがやってきては、ここに来て、眠っている彼らに刺激されて物語を綴るという寸法だ。

 ただ、彼らは眠っているといっても生きているわけではない。いや、過去には動いてはいた。それは人の夢や希望、願いなどで動いていた。だから人の希望や夢がない彼らは動くこともままならない。なぜなら大人たちはもう希望も夢もないことを知っている。とくにここへとやってくる者たちは現実を見据え、夢物語はただの夢だと知っている。つまりはネタバレを知っているのだ。

 たった一つの御伽噺の過去を除いて。


 人魚。


 人魚は細長いウナギの寝床のような缶のなかでふよふよと泳いでいる。

 一体、どうして

 誰のせいで?

 いつもみんな不思議がる。


 彼女はくすくすと笑って泳いで、客たちを見つめる。これではどっちが見られているのか。

 けれど、メリジューヌは知っている。

 彼女はここにくる客たちすべてを愛しているのだ。物語では献身的な愛を差し出す人魚なのだから。

 博愛主義者ともとれるが、本当に会う相手一人ひとりを心から愛している。それができるのが御伽噺なのだ。

御伽噺は自分の物語を読んでくれる者を心から愛さずにはいられないのだ。


 ただこの美術館には王子はいない。

 王子様、いや、主人公は美術館に来ることはない。なぜなら主役だからだ。彼らは幸せに満たされて、ただの人間として寿命を全うして死ぬのだ。


 王子は馬鹿だな。こんな素敵な人魚を救い上げず、人間と結婚して、永遠もなく、生きていけるなんて。

 メリジューヌはつくづく思う。

 王子の愚かさを。


 しかし。


 美術館で人魚を見ていて気が付いた。彼女の博愛は見ているだけで心が苦しくなる。人魚は純粋で、優しくて、愛に満ちている。ああ、こんな人魚の傍にいたら自分の汚さとちっぽけさがいやになってしまう。

 王子はだから人魚を捨てたんだ。

 愛に答えられる自信がなくて。与えてくれるものを返せると思えなくて。

 それは自分も同じだ。

 だから人魚と一緒になれない。それに自分はしがたない管理者だとメリジューヌは思い直して、いつも人魚を見ていた。


 人魚が動きを止めたと、客から声をかけられて彼は驚いた。

 とうとう人魚が止まってしまった。

 彼女への愛や希望をなくされてしまった。


 メリジューヌは慌てて水槽の蓋をあけて、彼女をすくいあげようとしたとき


「つかまえた!」

 笑顔で彼女はメリジューヌを抱きしめる。

「……え、あ」

「私の王子様」

 メリジューヌは目を見開いた。

「どうして逃げるの」

「逃げてなんて」

「いいえ。私が笑いかけてもあなたは逃げるわ。どうして? あなたが私を動かしてくれているのに」

「僕が?」

「そうよ。あなたが私を愛していて、夢を見ていてくれるから、私は動いているのよ。私たち童話の脇役たちは、必要とされないと動けないのよ。あなたはずっと、ずっと私を必要としてくれた」

「……僕が」

 繰り返すメリジューヌに人魚は頷いた。

「私を愛して、必要として」

「僕でいいの?」

「あなたがいいの」

 迷わない人魚にメリジューヌは泣きながら頷いた。



 その日、美術館にやってきた客たちは目撃した。水槽のなかの人魚に愛の口づけをかわす王子様の姿を。

 人魚は童話の主役になってしまった。

 これから彼女はその姿のまま愛されて、幸せになって、死んでゆくのだ。

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