一杯の紅茶のため

 その人は自分のことを探偵だと口にした。

 黒い紳士帽子、スーツのような洒落た衣服、きらきらとしたよく磨かれたステッキ、ぴかぴかの革靴。その井出達はどこに出しても恥ずかしくない紳士だ。

 彼は私の大学で起きて殺人事件に唐突に現れた。警察は彼に敬意を払い、他の人たちもみな彼の行うことに興味津々だ。

 彼ははじめ事故死だったそれを容易く、殺人事件と口にして、容疑者たちに声をかけてまわろうと言った。そのとき、なぜか助手として指名されたのが私だ。


 一人、また一人、大学の人間を個室に呼びかけて、彼は質問をした。

 まるで刑事ドラマみたいなアリバイ崩し。すごいな。

「少し休みましょうか。ムッシュー」

「はい」

 私は彼のために紅茶をいれた。

「珈琲を淹れないとは、あなたはよくわかっている」

 彼は私を褒めた。

「かおり、いろ、うん、すばらしい」

「ありがとう」

 あたたかい琥珀色の紅茶を飲み込み、私は事件に思いを馳せる。いや、馳せるというよりも、どうなるのかということを考える。

「犯人の検討はついているんですか」

「ええ、むろん」

「え、では、もう事件は解決しているじゃないですか」

「ふふ」

 紳士は笑った。

「そうですね」

「あなたが逮捕しないのは決め手がないからですか?」

「いいえ」

「……では、その犯人を捕らえるのが難しい?」

「いいえ」

 紳士は淡々と言い返した。それに私はなおも焦がれるように問いかけた。

「どうして捕まえないのですか?」

 紳士探偵は曖昧に笑った。

「私も、人の子ですから」

「はい?」

「おいしい紅茶を飲めるチャンスを失いたくなかったんですよ。ムッシュー」

「……」

 この紳士は――紳士だが、とても合理的な人なのだと私は理解した。そうか、すべてわかっていてこうしているのか。

 すべてわかっていて私を助手に指名し、こうして時間をかけて、疲れて、紅茶をいれさせた。

 たった一杯の紅茶。

 それを飲みたいためだけに。

 紳士だ。

「あなたが犯人です。ムッシュー」

 紳士探偵は紅茶を飲み干して私に笑いかけた。


 たった一杯の紅茶。そのためだけに紳士のとった素晴らしい配慮に私は沈黙した。

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