第3話 課題と、研究者

「『私』?」

 つばめ姉ちゃんに訊いてみる。

「ああ」

 と、すぐに笑われる。

「『私』ね。そっか。思い出せなくなっちゃったか」

「は? 誰の話?」

「いーや。あんたもその内分かる。ところでさ、あんたそろそろあれあるでしょ。本を読んでスピーチするやつ」


 俺はつばめ姉ちゃんの母校に通っている。何でもおふくろの母校でもあるらしい。一家揃って世話になっている高校だ。

「何読むか決めておきなよ。じいちゃんちいっぱい本があるでしょ。好きなの借りていったら?」

「そうするけどさ……」

 結局「私」は誰だっつーの。


「ああ、そういえば」

 つばめ姉ちゃんが思い出したように続ける。

「おばあちゃん、国文学の研究者だったんだよ。小説が読みたいなら、ばあちゃんの本棚探してごらん」

「ばあちゃんの本棚?」

 俺のばあちゃんはどうもおふくろが小さい頃に亡くなったらしいから、俺はばあちゃんのことは欠片も知らない。でもいい母親だったらしく、さく姉もすみ姉もおふくろも、口を揃えて「大好きなお母さん」と言う。そんなばあちゃんが、国文学の研究者。


「ほら、じいちゃんの寝室にある……」

 すぐに思い至る。

「あればあちゃんの本棚なの?」

「そうだよ」

「あ、そういえば」

 俺は思い付きを口にする。

「この間、そのばあちゃんの本棚で見つけた。変なメモ」

「変なメモ?」

「うん。『猫』って……」

 と、言いかけて、ピンとくる。

「そうだ。漱石でも読むか」

「おー、漱石」つばめ姉ちゃんが感心したような声を出す。

「高校生なら『こころ』をやるかな?」

「えー、じゃあ学校でやらないやつやろう」

「となるとやっぱり……」

 猫? と二人声を重ねる。


「そういや何かさ、『猫に名前がない』みたいなことがメモに書かれてたんだけど、じいちゃんちって昔猫飼ってたよな?」

「飼ってたみたいね。ジェームズ」

「ジェームズ? 名前があったのか」

「そう聞いてるよ」

 ますますメモの意味が分からない。

 まぁ、いいや。まずは課題だ。

 漱石の猫。『吾輩は猫である』。



 読むの自体は簡単だった。すっごく面白かったからだ。

『吾輩は猫である』通称『猫』を読み終えて分かった。この間のメモはやっぱり『猫』の話だ。ただ分からないことがあった。メモの中の「句、そして死亡通知」、そして「名前はなくても、ないからこそ」。何だこれ。何の話だ。


 そんな風に、発表の準備のために始めた『猫』の研究と、それにまつわる謎のメモで頭を悩ませていた時だった。

 やっぱりじいちゃんが消えた。いい加減にしてくれ、と思いながら川下の公園や、駅前のデパートへ行った。いなかった。


「じいちゃんがいない!」

 俺は龍己兄ちゃんに連絡した。兄ちゃんはすぐに返してきた。

「落ち着け。川下の公園は?」

「行った!」

「デパートの駐車場」

「行った!」

「じゃあ、あそこだな」

「どこ?」

 続けて言われた地名に、俺はたまげて空を仰いだ。

 ここから電車を乗り換えないと行けないような、ずーっと離れた、小さな丘の上の公園……。


 電車を乗り継いでその公園へ向かった。道中気が気じゃなかった。電車は俺の高校のある方に走っているので、車窓を駆け抜ける景色には安心感があるのだけれど……あのぼけ老人が電車を使って徘徊? 電車使えるんだからそりゃ鍵も開けられるわけだ。


 駅について、全力疾走で丘の上の公園に行ってみると、じいさんは何だか老後の青春よろしく眼下の景色を眺めている最中だった。俺は叫んだ。

「じいちゃん!」

 反応がない。

「名木橋明!」

 今度は振り返る。おお、と手を挙げる。


「分かったぞ。分かったんだ」

 俺のところに来るなり、じいちゃんはニコニコと告げた。

「名前なんか、関係なかった」

「は?」

「名前なんか、関係ないんだ。思い出さえあれば」

「何言ってんだよ?」

 するとじいちゃんは俺の肩を叩いた。

「お前にも分かる日が来る」


 何だそれ……。いつの間にかじいちゃんは俺を置いて公園から出ようとしていた。俺はじいちゃんを捕まえるべく走った。

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