第2話 メモを、見つけて。
そんなじいちゃんの面倒を見ていたある日のことだった。
何事にも息抜きは必要だ。俺はじいちゃんちの本棚を眺めて過ごしていた。それを見つけたのは偶然だった。
分厚い装丁の本の中にぴらっと一枚、何かが挟まっていた。紙切れだ。俺はその紙を引き抜いた。本棚から露出していたところだけ綺麗に日焼けしている、かなり古い紙のようだった。俺はその紙を見た。
何かのメモのようだった。綺麗な字で「猫」と書かれている。以下のような内容だった。
「猫→名前がないのは?」
「句、そして死亡通知」
「ビールを飲んで酔っ払って溺死→自分の退廃的な印象を投影?」
「名前はなくても、ないからこそ」
何だ、これ?
頭を捻って、考える。何も分からない。猫。死亡通知。名前がない。ビール。何だそりゃ。
この紙が挟まっていたところを見る。じいちゃんちにはどうしてか日本文学の本のコーナーがあり、学校の歴史の授業で習うような文豪の作品が所狭しと並べられていた。じいちゃんの専門は心理学のはずなのだが、趣味なのだろうか。趣味にしては随分詳しくまとめられた研究本みたいなものもあるが。
そんな、じいちゃんちの本棚の中の。
夏目漱石が置かれた一帯の、『吾輩は猫である』と『こころ』の間にそのメモは挟まっていた。俺は再びメモを見た。
猫って、猫か?
「またかよぉ」
ある日の放課後。じいちゃんちに行くとやっぱりドアが開いていた。また外に出た。また行方が分からなくなった。
「つばめ姉ちゃん」
今度はつばめ姉ちゃんに連絡する。
「じいちゃん消えたー」
「あら。じゃあほら、駅前のデパートあるでしょ。あそこの駐車場の三階に行ってみて。多分三十六番の駐車場の辺りにいる」
「は? 何でそんな具体的な……」
「いいから行ってみて」
仕方なく、言われたままに行ってみる。
いた。呆然と立ち尽くして、走りゆく車を見つめている。じいちゃんが立ち尽くしているからだろう。停める場所を求めて走っていく車も、三十六番の場所は素通りする。
「じいちゃん!」
俺の声が駐車場に木霊する。しかしじいちゃんは振り返らない。仕方ないので俺は叫ぶ。
「名木橋明!」
振り返る。何故だか悲しそうな顔のじいちゃん……。
「頼むよ」
俺はじいちゃんを家に連れ帰ってからじいちゃんに懇願する。
「勝手に出歩かないでくれ。探すのも大変なんだよ」
「……つばめはすぐに来てくれるぞ」
急に凛としてしゃべるようになるじいちゃん。何だよ。ぼけてる自覚あるのかよ。
「俺はつばめ姉ちゃんや龍己兄ちゃんじゃないんだよ。勘が鈍いの! だから頼むよ。大人しくしてくれ」
するとじいちゃんは急に温かい目になるとこう告げた。
「お前は似ている」
「似てる? 誰に?」
じいちゃんは答えない。口をパクパクさせて、何か言おうとしているのは分かるけど、言葉が出てこないらしい。
するとじいちゃんが唐突に俯いて、歯噛みし始める。堪えている……と思ったのだけれど、それはどうやら何か言うのを堪えているのではなく、涙を堪えているらしい。
「何だよじいちゃん。どうしたんだよ」
「名前が……」
「名前?」
「名前が、出てこない」
「誰の名前?」
「私」
「私? 名木橋明だろ」
「違う。それは俺だ」
じいちゃんは悔しそうだ。
「私……私と言っていたんだ。自分のことを」
「そりゃ自分のことは『私』だろ?」
「違う。違うんだ。名前が……」
何を悔しがっているんだ?
ふと、ここでこの間のメモを思い出した。猫。ビール。そして……。
名前がない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます