漱石の猫

飯田太朗

第1話 徘徊、するなよ。

 玄関前にやって来て、気づく。ドアが開いている。

 まただ。

 俺はため息をつく。開きっぱなしのドアから家に入る。


「じいちゃん」

 ちょっと強めの語調で。

「じいちゃん」

 今度は怒鳴る。

「じいちゃん」

 尻すぼみな声。


 頼むよ。何でいなくなるんだよ。俺はスクールバッグを玄関の床に放り投げてポケットから鍵を出す。おふくろから預かったじいちゃんちの鍵。スクールバッグを放り込んだ勢いでドアを閉じ、鍵をかける。徘徊防止のために何重にも鍵をかけろとあれほど進言しているのにずっと鍵はひとつのまま。一軒家にしては警戒が緩すぎる。あーあ、何で俺がこんな目に……。


 発端は、先日の親戚の集まり。さく姉のところの従姉妹、つばめ姉ちゃんがつぶやいたのだ。


「そろそろあんたがじいちゃんの面倒見てもいいかもね」

 するとすぐにすみ姉のところの龍己兄ちゃんが続いた。

「もう高校一年生かぁ。それじゃそろそろだな」

「だな」

 春人兄ちゃん。こいつは俺んちの兄貴。

「は? 何でだよ。意味分かんねぇ」

 俺がつぶやくと、つばめ姉ちゃんと龍己兄ちゃんが笑った。

「やんなさいよ。名木橋家の子供でしょ」

「そうだ。名木橋家の定めだ」

「だ」

「春兄やったのかよ」

 するとつばめ姉ちゃんが口を挟む。

「春人もやったよ。あんた中学生で遊び惚けてたから家のこと知らないんでしょ」

「名木橋家の血を継ぐ高校一年生はじいちゃんの世話を焼く運命だな」

 龍己兄ちゃんがにかっと笑う。


 つばめ姉ちゃんも龍己兄ちゃんも成人しているからビールを飲んでいた。春兄は受験を控えていたので集まりの途中でさっさと帰った。つばめ姉ちゃんの言葉も龍己兄ちゃんの言葉も、酔っ払いの戯言かと思いきや、やってきたおふくろが俺に鍵を預けてきた。じいちゃんちの鍵だ。

「本気かよ」

 俺が訊くとおふくろが笑った。

「あんたじいちゃん大好きでしょ」

 いつの話だよ……とは思ったものの、言い返すことはできない。


 小さい頃、俺はじいちゃんちで遊ぶのが大好きだった。小学校高学年になる頃には通わなくなってしまったが、それまでは、幼稚園の頃から五、六年間くらい、ずっとじいちゃんちに入り浸っていた。じいちゃんちには本がいっぱいあったからだ。俺は本が好きだった。


 いや、本が好きだからと言って何かを読んでいたわけじゃない。俺は本の装丁が好きだった。厚くて重たい本を包む表紙やカバー。そういうのを見てデザインを考えるのが好きだった。派手な本。大人しい本。元気な本。暗い本。本らしい本。本らしくない本。色んな本がじいちゃんちにはあった。俺はじいちゃんちの本棚を漁るのが大好きだった。じいちゃんも嬉しそうな顔をして俺を迎えてくれた。


 そんなじいちゃんは俺が小学四年生くらいの頃、急にぼけ始めた。徘徊するようになったらしい。警察から連絡が来たそうだ。

 以来家族の誰かが面倒を見なきゃいけなくなった。感情がぶっ壊れたり食事を忘れたりなんてことはなかったが、意思疎通が不明瞭だし勝手に出歩くのだ。そんなじいちゃんの面倒見係に最初に選ばれたのがさく姉のところの隆司兄ちゃんだ。つばめ姉ちゃんの一個上。現在二十二歳、就活中。次につばめ姉ちゃん。それからすみ姉のところの龍己兄ちゃんにバトンが繋がって、次に春兄、そして俺だ。分かってはいたが嫌だった。あのさぁ、俺は青春真っ盛りの高校生になったんだ。何がくるしゅうてぼけ老人の面倒なんか……。


 とはいえ。

 ほとんど強制的に、そして俺の方も強く拒否することはできずじいちゃんの面倒を見ることが決まってしまった。特に部活もやっていなかった俺は、毎日学校帰りにじいちゃんの家に行ってトイレの場所が分からなくなったじいちゃんの案内をしたり、家にいるのに「帰る」と言い出したじいちゃんにここが家であることを伝えたりする仕事を受け持つことになった。これじゃ介護だ。まぁ、介護なんだけど。


 そんなじいちゃんが、また。

 家から出て、そこらをほっつき歩いている。

 もうこうなったら俺には探しようがない。ヘルプの意味を込めて龍己兄ちゃんに連絡する。すると兄ちゃんはすぐに返してきた。


「家の近くに川があるだろ」

「ある」

「そこずっと下っていくと、公園があるんだ。パンダの乗り物がふたつある公園」

「ああ」あそこね、と思い当たる。

「そこにいないかな。行ってみてくれ」

「分かったよ」


 まったく。と俺はため息をつく。

 じいさんの居場所が分かっているなら俺になんて仕事を押し付けないでてめえでやればいいだろうが。何で俺がこんな面倒事を……。

 なんてくどくど考えながら川下の公園へ向かう。しばらく走って、見つける。


「じいちゃん」

 振り向かない。仕方ない。俺はこうする。

「名木橋明!」

 すると、振り返る。

 総白髪。彫が深くて外国人みたいな顔。

 でももう皺だらけ。目もどこを見てるか分からない。

 じいちゃんと呼んでも反応しないが、名前を呼ばれるとしゃんと姿勢を正す。

 ある大学の、元心理学教授。


 名木橋明。俺の、じいちゃん。

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