あるシスターが救ったもの
それはいつもの、とある午後のことだった。
私はペンを一つカンと机に突き立てた。
「……失望した?」
「……困ってるのよ」
私がそう言うと、翡翠の魔女は眼に見えて肩を落とす。
悲しそうな、辛そうな、それでいてどこか諦めたような、そんな表情をしていた。
それから泣きそうな顔で作り笑いを浮かべてくる。
私は軽くため息をつく。
パチンと指が鳴った。
少しだけ風に薙がれたような、そんな感覚が私を覆った。
だけど、私の頬はピクリとも動きはしない。
「効かないなあ、相変わらず」
どことなく、自嘲めいた笑みで魔女は嗤う。
「じゃあ、止めなさいよ」
もう一度、パチンと音が鳴った。
また、風が薙ぐ。でも何も起こらないのも変わらない。
私にその魔法は効かない。
なのに。
パチンと。
何度も。
パチンと。
繰り返す。
何度も何度も、翡翠の魔女はどこか泣きそうになりながら。
まるで神様にでも祈るみたいに。
パチンと。
繰り返す。
魔女であることを隠そうともしない黒衣を着て。
腰ほどまである異様な翠色の髪を揺らして。
端正な顔に、透き通ったような魔法の眼鏡を掛けながら。
私より遥かに長く生きた超常のあなたは。
子どもみたいに泣きながら指を鳴らしていた。
私がすっと腰を上げると、たったそれだけの動作で怯えたように顔を歪める。
私が少しずつ足を進めて近寄るだけで、椅子の背に身体を寄せて、縮こまるみたいにぎゅっと手のひらを握ってた。
まるで教会で幾度か引き取った、虐待を受けていた子どものよう。
誰からも相手をされることが無く、誰からも愛してもらえなかった幼子のよう。
自分から遠ざけたとはいえ、誰の心にも残らくなった人間というのは。
誰しも、こうなってしまうのかもしれない。
覚えられないということは、誰にも愛してもらえない、ということだから。
唯一の愛は、唯一の笑顔は、結局、彼女は自分でこねくり上げたものしか手にできなかったんだろう。
その『笑顔の魔法』とやらを創り出す前に、一体どれほどの怯えがそこにあったのか私には想像すらできないけれど。
一度、創り上げてしまった完璧な鎧は、見事なまでに彼女自身を閉じ込める檻になってしまった。
込められた願いはとても単純で。
『傷つけられたくない』『怖い想いをしたくない』『嫌われたくない』『怒られたくない』
そんな、誰しもが懇願してしまうような、ありふれたちっぽけな恐怖。
『みんな笑顔になればいいのに』
そう、誰しもがこい願う些細な魔法。
……そして、その殻にこもったまま、ずっといることもできただろうに。
魔女の力で、ずっとそれに甘んじることもできたろうに。
それでも、彼女は私に話した。
その想いを、その言葉を。
どうしてと問えば。きっと、そんなの単純で。
だけど、うまく言葉は出てこないんだろう。
きっと、沢山の言葉が邪魔をしてる。
もし、嫌われたら。
もし、怒られたら。
もし、拒絶されたら。
黒衣を着た、小さな子どもみたいな魔女は、何かを告げようとして口を動かすけれどうまくは動いてくれないみたいだ。
涙が喉の邪魔をしてる。感情が意思の邪魔をしてる。
それでも。
ただ、それでも。
指はそっと私の方に伸びてきた。
まるで何かを願うみたいに。
まるで何かを冀うみたいに。
小さな子どもが誰かに助けてと言うみたいに。
いつかの頃、迷子の私を導いたその手の平を。
私はそっと握りしめた。
※
怪異の調査官になったのはなんでだっけ。
昔から
なんていうか、適性があったんだ。
私の面倒を見てくれた、地元の教会の神官は、大人から気味悪がられる私を『それは神の愛だよ』と言って受け容れてくれた。
なんでも、たまにそういう人がいるそうだ。
救世主ほどではないけれど、神に偶々見止められ、祈られて、不可思議な力を弾く加護と不可思議なものを見つける眼を与えられる。
その力はところによれば、聖女なんて呼ばうるそうだけど。私はいかんせん聖女になるには、髪が黒すぎて、眼付が少々悪すぎた。だから怪異調査官というのはあまりにおあつらえ向きの職種だった。
変なものが見えるせいで、そこそこの頻度で苦労した。
神官に見出されるまでは何かと独りで、うまく周りになじめないことも多かった。
教会に引き取られて、ようやく同い年の友達と遊べるようになった頃。
小さな抜け道で魔女にであった。
翠色の髪をなびかせる黒衣の魔女。
迷子の私の手を引いてくれた不思議なあなた。
どの大人に聞いても、神官に聞いても、誰も正体を知りはしなかった。
少し背が伸びて、見習いの怪異調査官になって、怪異目録に眼を通したころ、初めてその存在に付けられた名前を知る。
『翡翠の魔女』
人の心を操って、知らぬ間に現れては、記憶から消えていく。
その目録そのものさえ、多くの人から忘れられたまま。
5人の魔女の、誰も想いだせない最後の一人。
この記録を書いた人も、やがては自分が何を書いたのかさえ忘れてしまったのだろう。
恐らく、この魔女のことを覚えているのは、私しかいない。
あの時、たまたま抜け道の中で迷子になり、手を引かれた私だけが彼女のことを覚えている。
私はそっと目録を閉じた。
それから、生まれた町に帰ったとき。あの時の路地に足を伸ばした。
あれ以降、一度も近づきはしなかったその場所に手を触れる。
何もない場所なのに、確かにそこには道があった。
よく目を凝らせば、他の誰も見つけていない道があった。
なんでそこまでしたのはかは、実は未だにわかっていない。
『翡翠の魔女』は恐ろしい魔女だけど、その実、大規模な精神操作を行ったり、政治に介入したなんて記録はない。もちろん、それらが抹消されている可能性もあるけれど。いつの時代も教会での判定は『介入しないのが最も安全』というものだった。
『発見次第即処刑』とされている黄昏の魔女や、『危険ではあるが現状の戦力では対応不可』とされている焔の魔女とかの、他の魔女に比べれば、危機感はずっと薄いものだ。
怨恨はもちろんない。
憧れというには、あの時は記憶は曖昧で。
執着と呼べるほど、はっきりとした自分の気持ちはつかみ取れていなかった。
ただ。
うっすらと。
頭の隅に残る記憶が。
あの時の路地裏の、魔女の顔が。
少しだけ。
私の背中をそっと押していた。
わからない、だから知りたかった。
その寂しさを見つけられるのは私だけな気がしていた。
そうして、もし、その寂しさを救えたら。
もしかしたら―――。
抜け道の向こうに一つのドアノブが見えていた。
それを握って、そっと回す。
ぎぃと音がして、ゆっくりドアが開いた。
開ききったところで、少し湿った木の匂いがする。
「おや、珍しいお客さんだ」
私の眼前で翠色の髪が揺れる。
透き通った眼鏡の向こうで、少し寂しげな瞳が見えた。
子どもの頃、私の手を引いたのと何も変わらない姿の魔女がそこにいた。
もし、そこにある寂しさを救えたら。
————小さい頃から私の心が、ずっと抱えてる寂しさも救われる気がしたんだ。
※
綺麗な顔にかかった眼鏡をそっと外した。
手のひらをそっと握ったまま、魔女が座る椅子の隅にそっと腰を下ろした。
泣きそうになっている幼子のようなあなたの隣で、私はそっと膝を抱える。
「……リオン?」
それからそっと彼女の方に体重を預けた。
こわごわと震えている肩の振動を感じる。
黒衣の向こうで固まった身体を、私の手の中で震える指を、少し乱れた呼吸の音を感じていた。
それからそっと背中を撫でた。
泣き声をあげる子どもをあやすように。
いつか、迷子だった私を慰めるように。
指でなぞって、手のひらで触れて、呼吸が少しでも落ち着くように。私も息をゆっくりと吸って、ゆっくりと吐く。
それから少しずつ、あなたの身体が落ち着き始めるのを待ってから、言葉を掛ける。
「怖い?」
「…………」
少し怯えたように身体が震える。
「寂しい?」
「…………」
少しだけ間を開けて、黙って首が縦に揺れた。
「そっか、寂しかったのね」
きっと、ずっと。
誰かから自分を守りながらずっと、他人から忘れられながらずっと。
この魔女は、寂しくて、怖くて、踏み出せなかったんだ。
人の心と向き合うことができなかったんだ。
「大丈夫、悪いことじゃあないからね」
だって、それはきっと多かれ少なかれ。
「誰にでもあることだから、私だって時々、独りじゃ寂しくて、誰かが怖くなるから」
肩に触れていた部分が、撫でていた背中の部分が、少しずつ緩んでいく。
固く震えていた感触が、柔らかくなっていく。でも少しだけ振動が収まったあと、身体はまた震えはじめる。
肩が揺れる、雫が零れる、嗚咽が少しずつ漏れ始める。
一体、何十年ぶりにその涙を零したのだろう。
10年か、20年かともすれば、100年とか経っているのかもしれない。
まあ、それもいいでしょう。今はきっと、泣きたいだけなけばいいのだから。
その涙が何100年分の想いなのか私にはきっと想像すらできないけど。
誰もが怖がっていいように。誰もが寂しがっていいように。
誰もが安心して泣くことくらい、あったっていいのだから。
いつかの私を抱きしめるように、黒衣に包まれたあなた身体を抱きしめた。
きっと、そんな日が誰にだって、魔女にだって、あっていい。
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