あるシスターの日常

 少女と魔女の出会いから数年が経った。


 今では少女も立派に成長して、教会の怪異調査官になっていた。


 ※


 「ハイネさん、翡翠の魔女の報告書持ってきましたー!!」


 両手が塞がった私が教皇庁の分厚い扉を蹴り破らんばかりの勢いで開くと、神官長のハイネは軽く欠伸をしながら、私を視た。どことなく眼がトロンとしていて、私はその瞬間に嫌な予感を感じ取る。


 「……


 ああ、もう。またか。


 この前、翡翠の魔女の忘却魔法を対策するなんて言っていたけどさっぱり成果は出ていない。


 「ハイネさんの手帳の前から4ページ目を参照してください!! それで足りなければ、怪異目録の49ページ目を見てください!!」


 もはや何度目かわからないやり取りを繰り返してから、私は山のような紙束をハイネさんの格式ばったデスクにどんと置く。半年分の報告書だから、随分と溜まってしまっているけれど、教皇庁にいちいち戻る時間も惜しいのだ。勘弁してもらおう。


 「あー、これかこれか……。じゃあリオン、紅茶でも飲んで報告を……ってどこいくんだぁ?!」


 書類を置くと同時に、私は踵を返して走り出した。ああ、もう時間が惜しい。ハイネさんが背後で呼んでいるが今は気にしていられない。


 あの魔女から片時でも眼を離しているこの時間が惜しくてたまらない。


 「調査に戻ります!! 紅茶はまた今度いただきます!!」


 「お前そう言って前も飲まずに帰ったじゃねーかー!!」


 遠く向こうで神官長の叫ぶような声が聞こえたけれど気にはしていられない。


 急げ、急げ、あの魔女から、一秒だって眼を離していられない。












 「で、リオンは誰の報告書を持ってきたんだっけ……?」


















 ※


 中央の教皇庁からとんぼ帰りすることはや三日。


 急いで教会の自室に荷物を置くと、私はそのまま町の方へと走り出した。


 途中、近隣の住民から挨拶をされるのでどうにか笑顔で返す。


 「リオンちゃんおかえりー、もう中央でのお仕事は終わったのかい?」


 「はい、おばさん。腰は治りましたか?」


 「ああ、前貰った薬のお陰でね。あれ、どこから手に入れたんだい?」


 「あはは、ちょっと内緒です」


 小走りだから少し焦りながら、またねと手を振るおばさんに手を振り返した。


 息が逸る、胸が痛くなる。修道服が翻って、はしたなくてみっともないけど、今はそんなの気にしていられない。


 そうして私は、商店街の隅にある、小さな細工屋のドアを勢いよく開け放った。


 そこは端から見れば何の変哲もないよくある細工屋。


 売っているのは眼鏡やアクセサリー、日用の小物、あとは用途のよくわからない品の数々。たまに謎の外国の品も色々混じってる。よくある細工屋。


 という建前になっている、そして、誰もがそう認識してる。


 私、独りを除いては。


 「おや、おかえり、リオン。今回は早かったね」


 窓際の安楽椅子に座って、店主が椅子から振り返りながら私を視た。


 穏やかな日の光の中で、薄翠色の髪の毛がさらりと揺れる。透き通ったメガネをかけた端正な顔が優しく私に向けて微笑んだ。


 ただ、私の表情は対照的に渋くなっているんだろう。


 「……今回は、何も変な物、売ってないでしょうね?」


 「ああ、売ってない。売ってない、よくある品ばかりだよ」


 その言葉に、私は軽くほっと息を吐きかけて……慌てて商品棚にばっと眼を向ける。


 それから、懐のメモを取り出して並んでいる商品と照合させていく。


 銀のペンダントが三つ減ってる。……あれは悪霊に効くけれど普通に生活してる分には問題ない。


 銀のスプーンも同様。対毒物の効果があるけど、それも日常生活に支障は及ぼさない。


 よく磨ける銀細工用の磨き布。まあ、許容範囲。


 円環の砂時計……よし、減ってない。つまり、誰も買ってない。相変わらず、ほこりが積もって誰も回した形跡すらないのに、砂はいつまでも延々と落ち続けているけど。


 私は一通り在庫を確認し終えて、軽く息を吐きだした。


 どうやら、今回はこの店主が売ったもので後始末はせずに済むらしい。


 「だから、言ったでしょ? なにも売ってないって」


 その言葉に、私は嘆息を尽きながら、店主の向かいの椅子に腰を下ろした。


 「……毎回こうなら、いいんだけど」


 そうぼやく私の眼前で、店主―――翡翠の魔女は楽しげにくっくっくと笑いながら、そっと紅茶を出してくれた。


 見たことのない陶器のコップだ。……東方からの渡来品かな。


 この魔女は大してここを動きもしない癖に、時々、こうやってどこから手に入れてきたのかよくわからない品を持ってくる。当人曰く、『抜け道』のお陰らしいけど。


 手渡された魔女らしい緑色の液体を眺めながら、私は念のため、軽く匂いを嗅いでみた。苦みがあるけど、紅茶とは少し違う匂いがする。悪くはないけど、得体も知れない。


 「これ、どこのお茶?」


 「東の島国のお茶だよ。なんて言ったかな……グリーンなお茶。大丈夫、紅茶と製法が違うだけで、元はおんなじだよ」


 私は若干警戒をしながら、少しずつ啜っていく。少しはしたないが、背に腹は代えられない。


 「……味は……普通……体調の変化……なし」


 「……警戒しすぎじゃない?」


 「昔、誰かさんに媚薬をもられたことがあったからね……」


 「ふふ、そんなこともあったねえ」


 肝心の誰かさんは悪びれもせず、私の前で眼鏡を弄りながらほくそ笑んでいる。


 あの時は、正直、酷かった。私は魔法の効きづらい体質なのに、それでも正気を失って痴態をさらしてしまったのだ。まあ、あれ以降、飲み物に変なものは混ぜないと言う約束は取り付けたけど。


 ただ、今回はコップと中身こそ見慣れないが、変な効能はないみたいだった。


 身体が魔法に侵された時に特有の変な拒絶感が今はない。


 「……今回は大丈夫みたいね」


 そこで私はようやく長く長く息を吐いた。


 一度警戒が解けると、お茶の暖かさがじんわりと身体に染みわたってくる。


 何せ、中央からこの町まで大分強行軍だった。ハイネ神官長の紅茶も飲まなかったし。よくよく考えれば、しっかりリラックスしてお茶を飲むのも随分久しぶりな気がする。


 「そう言ったじゃない、はいお茶請けの島国のクッキー」


 「どーも」


 「それと、お茶請けの漬物」


 「そんなに食ったら太るわ」


 「君はむしろもっと食べた方がいいと思うけどね」


 「余計なお世話」


 言いながら、翡翠の魔女は私の手首に指を回して、ほらこんなに細いとぷらぷらと回してくる。私は軽く手を払って、ふうとお茶に息をつけ直す。


 「


 「あー……そう、……ん?」


 そして、そう問われて―――そこでようやく違和感に気が付いた。


 対面の魔女が随分と、楽しげに笑っていたから。


 それはこの魔女が、よくいたずらが成功したときにやる笑みだ。


 まて、何かされている。


 慌てて自分の身体を検分する、異常がない。


 お茶だって、急になくなっていたりはしない、変化もない、異常もない。


 ……あれ。ちょっと待って、変化がなさすぎる。


 さっきから、お茶を飲んでいるはずなのに、


 「あんた……これ」


 私が少し顔を引きつらせながら、その東方のコップを指さすと、魔女は楽しげに大笑いした。


 「あったりー『無尽の湯飲み』なんだよね、それー。一度淹れたものは捨てるまで、なくならないで永遠に飲めるのー」


 いたずら大成功、とでも言わんばかりに笑顔を私に向けてくる。


 対する私の頬は引きつり固まり、頭痛まで少し湧いてきた。


 「これ……売ってないでしょうね?」


 「定食屋のおじいさんが買っていったよ。ま、大したものじゃないから、大丈夫」


 「ばかーーーー!!!」


 穏やかな午後、美味しいお茶請けの皿を揺らしながら、私の絶叫が町に響いていた。





 「こういうことは、何度も聞いてしまうんだけどさ」


 「じゃあ、そろそろ覚えて欲しいわ」


 「どうしてあれは、渡してはいけなかったんだい?」


 どうにかおじいさんから回収した『無尽の湯飲み』は今、厳重な箱に収められて、私が鍵を掛けているところだった。恐ろしいことにこれ、四・五個あるらしい。


 「あんなのがあったら、ワイン屋のベルードさんは仕事にならないわ。それに、多分、おじさんの定食屋だけ異様に儲かり過ぎちゃうでしょ。なにせ、どんな高級な飲み物も飲み放題なんだから」


 回収自体はすんなりいった。私の後ろにくっついてきた翡翠の魔女が、パチンと指を鳴らすだけでおじさんは笑顔でニコニコしながら湯飲みを返してくれた。一応、お代も返しておいたけど、魔女の魔法のせいで、今ではそれを覚えているのかすら怪しい。


 「別にそれでいいじゃないか、儲かってるんだから。事実、喜んでいたし」


 「あのね、そしたら他の定食屋からやっかまれるでしょうが。それが摩訶不思議な力によってたら尚更よ、悪魔憑きって言われてもおかしくないわ。そしたら、結果的におじさんが不幸になるでしょ――」


 私は軽くため息をつく。対面の翡翠の魔女は綺麗な翠髪を揺らしながらじっと私を観察するみたいに、ながめていた。


 「何度も言うけど、心を司る魔女なら、人の心がどうなるのか考えてみてちょうだい」


 そうして、このセリフを吐くと決まって、魔女は私から顔を逸らした。


 何もない方向をぷいッと向いて、端正な顔がいたずらを叱られた子どもみたいに不貞腐れる。


 それから、小さく小さく、決まった文句を呟いた。


 「そんなのわかんないよ」


 私より何十年も長生きをしているはずの、おとぎ話の魔女が子どもみたいに拗ねるのは、まあ面白くはあるんだけど。


 こう、教会が恐れた5人の魔女の威厳というのをもうちょっと意識して欲しい気もするなあ。まあ、魔女の中では大分、若い方らしいけどさ。


 「だから、おいおい覚えてね……。それで、さっきの無尽の湯飲みまだ2つあったわよね?」


 「……うん、あるけど」


 「お茶にしましょうよ、とびっきりいい紅茶でも入れてさ、中央のお土産のクッキー持ってきたから」


 私がそう言うと、少し不貞腐れた魔女は、私をじぃっと見つめてきた。

 

 「定食屋で使うのはダメなのに、私達は使っていいの?」


 うーん、そう言われるとちょっとバツが悪いけど。


 「個人で使う分には別にいいでしょ。ここはどうせ、そういうものばかりなんだから」


 店主の湯飲みに入った飲み物が減っていないくらいで、町人が騒ぎ立てるなら、この店はとっくに魔女狩りに滅ぼされている。


 なにせ、ここに渦巻くのは翡翠の魔女の『忘却の魔法』。


 彼女にまつわる全てのものが、人々の記憶から薄れ、滲んで、忘れられる。


 他の魔女が素性を隠して、各地に散っている中で、彼女だけが唯一堂々とその居を構えて中央から近いこの町に居座っている。


 魔女であることを隠そうともしない、黒衣の姿も、店に並ぶ異能の品の数々も、ひとたび店を出れば滲んで消えて、忘れてしまう。


 定食屋の店主も、その湯飲みを誰から買って、何故、中の水が尽きないのか、私達が着くころにはすっかり覚えていなかった。


 中央にいる神官長ですら、うっすらと魔女の痕跡に触れるだけで、その名前と存在を忘却してしまう。大半の神官は5人の魔女の最後の一人を想いだせないまま。忘れられた目録にだけひっそりと名前が書き記されている。


 彼女のことをちゃんと覚えているのは、他の5人の魔女と、生まれつき魔法が効きにくい体質の私だけだ。


 私だけが彼女のことを覚えてる。


 私だけが彼女のことを書き記せる。


 私だけが彼女のことを遺しておける。


 「まえはどこまで話したっけ」


 「海辺の村に移動したところでしょ」


 だからこうして記録を取る。


 彼女がかつてどこにいて、何を想い、何を成して、どう生きてきたのかを。


 懐にしまっていたペンと紙を取り出して、私はそこに記し始めた。


 魔女の機嫌は気づけばいつの間にか治っている。


 まあ、大体この話を始めると、魔女はいつも上機嫌だった。


 叱られたこともすっかり忘れて、自分の昔話を語りだす。私の方は、わかりやすいなあって軽く笑って、その話を相槌を打ちながら書き記す。


 それがひと段落着いた、私と魔女のよくある午後。


 なんてことはない、日常だった。

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