第30話 最初の課題
「特にない、ね」
ミライさんのその声だけが静かに部屋に響いた。
集まった時はあんなに明るかった部屋の空気が、今は火が消えてしまったかのようだ。
「じゃあ、今から一人ずつ個人面談しましょうか」
ミライさんは少し困ったように笑いながらそう言った。
◇ ◇ ◇
最初に声をかけられたのは愛生で、残された私たちには課題が与えられた。ミライさんが持ってきた本の中から好きな本を選び、その第一章を読んで自分の意見をまとめる、というものだ。
「いい? 私が他の人と面談している間は自分の作業に集中すること。私語厳禁だからね! あとでまとめた内容を発表してもらうから!」
ミライさんはそう言い残すと、愛生を連れて奥の個別相談室に行ってしまった。残された私たちは、大人しく課題に取り組む。
ミライさんが持ってきた本はすべてクィアに関する本ではあったが、ジャンルはバラバラだった。それこそ専門書や学術書、実用書に分類されそうなものもあれば、ノンフィクションの自叙伝やエッセイのようなもの、雑誌、漫画、絵本まである。
もちろんこれまでも、ドラマや映画、漫画などでクィアが出てくる作品に触れたことはあった。けれど、愛生と話すまではどこか遠い世界の話のように感じていたのも事実だ。
それが改めてこんなに色々な媒体で取り上げられていたのだということを知り、想像以上に多くの人達がこの分野に関心を寄せているのだということを思い知った。
とりあえず私たちは目についたものをパラパラとめくって中身を確認する。まずはどれに取り組むかを決めなければ話が進まないからだ。
研究なのだから、やはり専門書の類が良いのだろうか、と思って手近にある本の中身をのぞく。タイトルからして『はじめての○○』とか『○○入門』といったものがほとんどなので、ミライさんもそこは配慮して選書してくれたのだろう。とは言え、なんとなくとっつきにくさを感じてしまう。
そこで最初から無理をすることもない、と割り切って、私は自叙伝やエッセイと思しき方に手を付ける。それはタイトルからして分かりやすく、『レズビアンとして生きる』とか『ありのままでいるにはカラダが邪魔でした』とか、パッと見ただけでも目を引いた。ノンフィクションの作品というのはほとんど読んだことがなかったけれど、それでも先ほどよりは関心が持てた。
そして、やはりこのジャンルの中から選ぼう、と思った矢先、ふと目にした本のタイトルが気になった。
『恋愛って選択科目じゃないんですか?』
それはハードカバーの本で、恐らくは専門書もしくは学術書に分類されるものだと思う。それでも、そのタイトルが私の中でくずぶっていたモヤモヤを言語化してくれたような気がした。
導かれるようにその本を手に取り、改めて中に目を通すと、目次を見るだけでも興味がわいた。もし課題がなかったとしても、この本を読んでみたい、と強く思うほどに。
そしてそれを手に自分の席に戻ろうとすると、莉緒と朔空は既に本を読み込み始めていることに気づいた。なんとなくどんな本を読んでいるのか気になって、邪魔しない程度にそっと盗み見ようとしたところ、ちょうど奥の個別相談室からミライさんと愛生が戻ってきた。
「課題は進んでる?」
ミライさんの声に顔をあげる二人。私はその間にそそくさと自分の席に着いた。
「それじゃあ、次は朔空にしようかな」
何か話の一つでもするのかと思いきや、ミライさんは私たちに投げた質問の返答すら待たずにそう言うと、そのまま個別相談室の方へ引き返してしまう。朔空は慌ててその背を追うようにして席を立った。
二人が行ってしまった後。
莉緒は読んでいた本の続きに目を通しているようだったけれど、私は戻ってきた愛生の様子が気になって、そっと愛生に視線を移す。
すると愛生は静かに本を選んでいて、それはいつも通りの姿に見えた。少なくとも、ミライさんと面談する前に見せていた、暗く思いつめたような様子はない。
その様子にホッとしつつ、私はとある可能性に思いを巡らす。
それは、もしかしたら本当は、今日個別面談をする予定はなかったのではないだろうか、ということだ。
ミライさんは私たちに課題を出したけれど、どうまとめればいいのか、発表はどう行うのか、といった細かいことは何を聞かされていない。個別面談でどんな話をするのかも、だ。
呼ばれたい名前やグランドルールなど、かなり緻密に考えられていそうなプログラムに続いて、なんとなく今行っていることは雑に感じられた。
そう考えると、ミライさんは私たちの間に流れた微妙な空気の変化を察して、個別に話を聞くべきだと判断し、当初の予定を変更したと考える方が納得できた。
この考えの真偽を確かめることはできないけれど、もしそうだとしたらミライさんは相当こういったことに慣れているのかもしれない。
ミライさんには無理を言って申し訳ないという気持ちもあるけれど、やはり人選は間違っていなかった、と改めて思った。
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