第28話 グランドルール

 とはいえ、突然『呼ばれたい名前』と聞かれてもとっさに良い名前は思い浮かばず、そもそもそれほど自分の名前に違和感があるわけでもなく、私たちは下の名前に敬称なしを選んだ。


「私はね、是非『ミライ』って呼んでほしいです。この界隈ではそれで通ってますので。敬称は『さん』でも『ちゃん』でもなくてもいいけど、実は『先生』はちょっと気恥ずかしいからやめてほしいんだよね」


 一人だけそう言ったのは言わずもがな。そんなわけで、私たちは目の前のその人をこれから『ミライさん』と呼ぶことになった。




「じゃあ、次に決めたいのはグランドルールです」


 ミライさんがそう言って、莉緒がホワイトボードに『グランドルール』と書く。


「グランドルールって何ですか?」


 私がそう質問すると、先生は丁寧に説明してくれる。


「グランドルールっていうのは、まあ簡単に言うと、ここでのお約束、みたいなものかな。この分野の議論をするときって、とてもセンシティブな個人のことを話すこともあると思うの。でも、いきなり話せと言われてもなかなか難しいでしょう? だから、みんなの心理的安全性が担保された状態で議論ができるように、全員が同意できる約束事を決めましょうってこと」


 『センシティブな個人のこと』。それは例えば自分のセクシュアリティのことだろうか。研究を進める中で恋愛についての議論をすることがあれば、話題としてあがる可能性は大いにある。


「えっとすいません、ちなみに心理的安全性というのは?」


 そう聞いたのは莉緒だった。


「あ、そっか。それも説明が必要だよね」


 ミライさんはそう言うと、一つ咳払いをした。


「心理的安全性というのは、自分の考えを誰に対してでも安心して発言できる状態のこと。これがないと、建設的な議論ができないと言われている。例えば、『こんなことも知らないの?』と言われるのがこわくて何かわからないことがあっても質問できないとか。『ダメな奴』と思われたくなくて困ったことがあっても相談できないとか。後は、意見を言ったらみんなの議論を邪魔してしまうんじゃないかとか、問題に気づいても和を乱してはいけないんじゃないかと考えて、思っていることを言えないとか」


「つまり、不安に思わずに思ったことが言い合えるように約束事を決めましょうってことですよね」


 朔空がそう言うと、ミライさんは大きくうなずいた。


「まずは、この五人で議論をするとき、どういう状態になったら自分が意見を言いにくいと思いそうか、あるいはもっと単純に、こんな状況になったら嫌だと思うことを考えてみようか。思いついたらこの付箋に書いて壁に貼ってね。何個でもいいよ」


 ミライさんはそう言って、全員に付箋を配った。私もひとまずはその作業に取り掛かる。


 こういう時も性格というものは出るもので、貼りだしてみると、愛生の付箋はたくさんある一方で、莉緒の付箋はごくわずかだった。


 内容に関しても本当に人それぞれという感じで、例えば私が書いたのは『考えている最中に意見を求められたくない』というものだったし、莉緒が書いたのは『頭ごなしに否定されること』だった。朔空が書いたのは『ギスギスした雰囲気』とか『発言を軽んじられること』で、愛生は色々書いていたけれど『生産性のない議論』とか『自由に意見が言えないこと』などだ。


「みんなありがとう。これから一つ一つ見ていこうと思うけれど、もし『なんだそれ?』と思うものがあったとしても、今は一旦受け止める、ということを意識してね」


 ミライさんはそう前置きして、付箋を一つ一つ読み上げる。そしてそれを書いた人がどういう意図で書いたのかを説明し、似たようなものがあればまとめていく、という作業を繰り返した。


「じゃあ、こういう不安や嫌な状況を起こさないために、どんなルールがあれば良いかな?」


 ミライさんがそう言って、すかさず朔空が答える。


「お互いの意見を尊重する!」


 莉緒はそれをホワイトボードに書いた。


「いいね! それすっごく大事」


 ミライさんもそれに同意した。


「そうだな、相手の時間を大事にする、とかかな」


 私がそう言うと、朔空が首をかしげる。


「ん? どういうこと?」


「えっと、例えば相手が考えてたら待ってあげるとか、とりあえず意見は途中で口を挟まずに最後まで聞くとか。あとは言いにくそうにしてたらそれ以上聞かないとか、そういうことが言いたかったんだけど」


 詳しい説明をすると、朔空は腕を組んで考え込む。


「なるほど。う~ん、それなら時間を、というよりは、その人自身を、だよな? 仲間を大事にする、とかは?」


「んー、ちょっと抽象的な気はするけど、まあそっちの方がいいかもね」


 そう言うとみんなも頷いてくれて、莉緒はまたホワイトボードにそれを書き出した。ところが、先ほどとは違ってそこでペンを置かず、さらに何かを追加する。


『ギスギスしたらお菓子を食べる』


「あっは! 何それ」


 私が思わず吹き出してしまうと、みんなもニヤニヤと笑っている。


「あはは! いいね、それ! 私も賛成!」


 ミライさんまでノリノリで、莉緒は照れたように笑った。


 そうして最終的に私たちのグランドルールは四つに決まった。


 ・お互いの意見を尊重する

 ・仲間を大事にする

 ・ギスギスしたらお菓子を食べる

 ・ここだけの話にする


 最後の一つはミライさんから提案されたものだ。


「私も含めて、みんながここで話した内容は、この場以外では話さないようにしよう。もしどうしても誰かに共有したくなったら、全員の同意を得ること。もし相談があれば私が乗るけど、私にも言いにくいことだったら、相談室の別の先生とか、とにかく守秘義務がある人にしてね。これだけは絶対に守って」


 いつになく真剣なミライさんに、私たちは神妙にうなずいた。

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