私の失恋の話

あん彩句

私の失恋の話


 高校生の時、変わった男の子と知り合った。


 その変わりようったら、「やっぱり高校生になるといろんな人がいるんだねー」レベルじゃなくて、今までもこれからも、きっとなかなか出会えない人。



 その変わったところはただ一つ。他はいたって普通。イケメンでもブサイクでもなく、賢さも、運動神経も普通、身長も普通、太ってもいないし痩せてもいない。


 髪は黒髪のまま、前髪は長い方だけど、横の毛は耳に少しかかるくらい。ああ、今流行りのね、なんていう髪型でもない。つまり、普通。黒いリュック、白いスニーカー、ピアスはなしで、目立つこともしない。


 ペンケースは壊れたらしくて持ってなくて、シャーペンと蛍光ペンを輪ゴムで留めて持ち歩く——うーん、これはちょっと変わってる。消しゴムはすぐになくなるから「間違えないように」しているらしい。万が一間違えたら消しゴムを借りる、隣の席の人に。



 隣の席の人、つまりそれが私。


 私の机をトントンと叩いて、消しゴムを指差す。どうぞと渡すと、頭を軽くぺこりと下げる。返してくる時も同じ。私の机の端に消しゴムを置いて、私が顔を上げるとぺこりと頭を下げる。私が頷くと、同じように頷く。



 ある時はその輪ゴムの一式を忘れたみたいだった。私のシャーペンを指差して、指で『1』を作った。つまりもう一本ないかってこと。

 予備のシャーペンを貸してあげたけど、次の時間にはちゃんと返してくれた。きっとそれほど仲良くない私に遠慮して他のクラスの子から借りてきたみたいで、お礼のつもりかミルクの飴を一つくれた。



 そう、その男の子の変わってるところは、話さないこと。絶対ではない。極力、声を出さない。どうしても通じなかったら紙に書いて、書くものや紙がなかったら、最終手段で声を出す。口元を手で覆って、ごにょごにょって早口で。


 お昼ご飯はどうしてるんだろうっていつも思うけど、教室にはいない。他のクラスの同中の仲良しと食べてるんだって聞いたことはあるけど、それを確かめようなんてほど興味はなかった。


 そう、興味はあんまりなかった。同中の友達がその男の子の話を持ち出すまでは。



高野たかの仁志ひとしって、知ってる?」


 唐突に言うから、最初は誰のことかすぐにわからなかった。校舎が違うその子は接点もないはずだから、なおさら。


「ほぼ毎日来るよ、部活の前に」


 部活?


 その子は陸上部だ。それに高野は部活なんか入ってないと思う——私が首を傾げたら、その子がおかしそうに笑った。


橋下はしした綃子しょうこは知ってるよね? 前にみんなでカラオケ行ったじゃん。その綃子のとこにね、来るんだよ。『橋下さんを呼んでください』ってメモ持って」


「付き合ってるの?」


「違う。だって綃子は彼氏いるし。小学校が同じで仲は良いみたいだけど」



 その子が言うには、やっぱり高野はしゃべらない。しゃべらないんだけど、その子へいつも同じメモを見せるんだって。


『橋下さんを呼んでください』


 いつも同じメモだから、ポッケの中でくしゃくしゃになってて、それを手のひらで伸ばしてから見せてくる。その子は部室に頭だけ突っ込んで、橋下さんを呼ぶ——橋下さんは、もう呼ばれることに慣れちゃって、「もうそんな時間か」なんて言って出てくるらしい。


 二人は体育館の横のコンクリートの上に座って、校庭を眺めながらおしゃべりするのだそうだ。おおよそ15分くらい。



「おしゃべり?」


「そう、おしゃべり」



 高野は橋下さんと二人きりになると、ちゃんと会話ができるらしい——おそらく、私はそれが気に入らなかったんだと思う。



 なぜって、「高野ってヤマちゃんには懐いてるよね」って、そうやってクラスのみんなに言われ続けてたから。他の子が隣になったところで消しゴムなんて借りたことがない。ましてお礼に飴なんて。


 だから私は、高野が私を好きなんじゃないかって、そう決めていたんだと思う。



 ある日。私はこっそり、陸上部の部室へ潜り込むことに成功した。それで待っていた。高野が橋下さんを呼びに来るのを。


 高野はまんまとやってきて、私の友達にいつものメモを見せ、橋下さんもまた来たかってそんな調子で部室を出て行った。

 その後で部室の重いドアを開け、こっそりと二人の様子を眺めたりした。そして、そんなことをしなきゃよかったって思い知った。



 高野は橋下さんと少し距離を空けて腰掛けて、なのに橋下さんの方へ身を乗り出して声をかけた。何を話していたかはわからない。でも、高野は口元を隠さなかったし、見たこともない顔で笑った。もうまるで告白するみたいに橋下さんを見つめる。


 それでも私は認めたくなかった。教室で隣に座り、消しゴム貸してと机をトントンされることが愛情表現だと思い込もうとした。でもそれが、幻想だったと認めざるを得なくなる。



 それは雪の降る日だった。冷たい真っ白い雪に体を震わせて教室までやって来て、顔を合わせた途端に高野は私の机の上に小さな四角いチョコレートを置いた。

 金色の包み紙に包まれた、少し高いチョコレート。ホワイトチョコが好きだなんて言った覚えもないのに、高野が用意したのは私の好物に沿っていた。心臓が痛んだ。


『ベルギーではお世話になった人にお礼をする日なんだって』


 高野は私にチョコを贈った理由をそうメモに書いた。私はそれだけで、もうカバンの中に隠したチョコレートを出せなくなってしまった。そして、私の恋が終わる時間が迫る。



「仁志」


 休み時間に高野を『高野』ではなくてそう呼んで手招きしたのは橋下さんだった。

 ドアに寄りかかって、おいでおいでと誘惑する手を拒まない高野は、まるきり私の存在など忘れている。橋下さんは高野の手の中に、小さなハート型のチョコレートをポンと置いた。


 きっと安いチョレートだ。私のカバンの中に入った最高傑作とは違う。もしかしたらコンビニで今朝思いついて買ったものかもしれない。

 それでも高野は、それを両手で受け取った。


「しょうちゃん、一個だけ?」


 そうやって聞いた高野の声が、マシンガンみたいに心臓を貫いた。

 高野は口元も隠さずに、両手で小さなハートを受け止めて、にこにこと笑う女の子を見つめる。



 橋下さんは飛び抜けたかわいさを持っていない。短距離で鍛えた太腿はスカートから見えても色っぽくもなんともない。胸もぺたんこだ。

 小学生がそのまま女子高生になった感じ。お弁当は男子と変わらない大きさで、化粧っ気もない。自転車通学だって。雨の日以外は日光にさらされて、歯の白さが際立つほど真っ黒に日焼けしてるの。


 でも、高野は橋下さんしか見つめていない。



 高野は、橋下さんからもらったチョコレートをずっと机の上に置いていた。

 大量生産されたそのチョコレートは、高野を魅了して一日中じっと見つめられたままだった。私がバカバカしくなって少し泣いたことも気づかないほど、高野はそのチョコレートに夢中だった。


 ズタズタに引き裂かれた私が最後に高野に聞いたことはこれ。


「橋下さんが好きなの?」


 そう尋ねた後に、高野は夢見るようにとろんと遠くを見つめた。そして口元を隠そうともせず、私に身向きもせず、私が見たくないだれかを見つめてやさしく言った。


「——しょうちゃんはね、初恋の人」





 その、どうしようもない恋が、私の未来を決めたような気がした。それからどうしたって、高野を越える男性ひとは現れなかった。

 もしかして、もしかしたら——そうやって何回目かの同窓会に参加したのは、くしくもバレンタインデー。私がひどい失恋をした日だった。


 それなりに成長した私たちは、いくつかの結婚式の招待状を乗り越えて物分かりの良い大人になっていた。

 もうバレンタインをそんな特別な日と認識している人も少なかった。義理チョコを用意することに慣れた女友達がそれを配り、もらい慣れた男友達が「やったね」なんて気軽に受け取る。



 高野はいつも通り遅れてひょっこりと顔を出した。遅れてくるか、それともさっさと途中で帰ってしまうか。二次会に参加したこともない。高野はいつもそうだった。


 私は「久しぶり」と高野を自分の隣へ招き入れ、どんどんビールを飲ませ、お酒の勢いを作った。まだ引きずっている気持ちをなんとかしたかった。

 だから、現実はそんなに生優しくないと知っている私が、少しの期待を持って高野に尋ねる。



「そういえば、橋下さんとはどうなったの?」


 もう何年も経っていて、高野は口元を隠さずとも普通に会話するようになっていた。


 誰とも無理せずに言葉を交わし、冗談を言い、口を大きく開けて笑う。あの頃の『変わり者』はなんだったのだろうかと思うほど。


 酔った勢いのふざけた騒々しい笑いの隙間に、高野が言った。



「もう、『橋下さん』はいないよ」



 私は心の中でその言葉の衝撃に脳震盪を起こしながら、お酒の力を借りて大いに笑う。

 これが冗談だったら、もしかしてあの噂は嘘かもしれないし、本当だったとしても、もしかしたら——はっきりしない言葉はまだ私の期待を壊すには至らない。


 なんてね。嘘よ、ウソ。本当は全部知ってるの。


 成人して立派に社会人として世の中を回すかけらになるといろんなことを思いつくようになる。例えば期待が粉々になっても、すぐにまとめて避けられるように準備は万端だった。だからもう、バカバカしくて泣いたりもしない。


 結婚式はしなかったんだって。海外旅行へ行って二人だけで神様に誓ってきたらしい、病める時も健やかなる時もって——友達の輪ってすごいでしょ、時々スマホを踏み潰してしまいたくなるくらいね。



 あの時に渡せなかったモノは、今もバッグの中にある。ナイロンの布ではなくて、ピカピカの革製に変わっても、中身はたいして変わってないの。

 冗談でも義理にはできなかった、私の恋心。


「バレンタインに惚気話なんかしないでよ、子供じゃあるまいし」


 そう言って高野のグラスにビールを注ぐ——私の最高傑作を二度も逃すなんて、後悔したって言うことになっても知らないんだから。




【 私の失恋の話 完 】



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