第4話

ユウキが筆談を覚えてから更に数日が経ちました。

テレビの情報と周りの仲間たちの指導の成果で、書ける言葉はどんどん豊富になり、小学生レベルかそれ以上に会話が成り立つようになっていました。

「ユウキは勉強熱心だからさ、皆もキミの成長を見るのが楽しいんだろうね」

ある日マユに、なぜ皆は自分に色々教えてくれるのかと尋ねたら、そう返ってきました。マユが今しているように、ユウキには書きながら口に出して話すというのが暗黙のルールになっています。

【ユウキも、皆と話せてうれしい】

「ほんと?よかった、ボクも嬉しいよ」

【嬉しい…むずかしい】

「あはは画数が多いからね。でも読めるよ?」

そんな感じのやりとりを大抵はマユと、時々まわりの人たちも加わってするのが日課でした。

「ユウキさーん、発声練習の時間ですよ」

スタッフの一人から声をかけられ、ユウキは椅子から立ち上がるとマユへ手を振りました。

「行ってらっしゃい、頑張ってね!」

マユの応援を受けて向かったのは、防音のきいた発声練習所です。入院して一月ほど経った頃から始まったのは、ここでの声を出す練習でした。

「はいそれじゃあ、いつものから行きますよ。真似してくださいね。あーいーうーえーおー」

「あーいーうーえーおー」

こんな感じに、先生に続いて発声していきます。

まるで親が小さい子供に教えるような感じです。

「かーきーくーけーこー」

「あーいーうーえーおー」

「か行はまだ難しいですか。じゃあこれは?まーみーむーめーもー」

「まーみーむーめーもー」

「お!ま行はもう大丈夫かな、すごいですよ!」

ユウキは見よう見まねで口の動きを真似し、いまは何とかあ行以外にも、は行とま行が発音できるようになっていました。他の音は口の使い方がよく分からないのか、苦しんでいるようです。

「ほら、さーしーすーせーそー」

「あーいー…あーいーうーえーおー…あ、あー」

(がんばれ、がんばってユウキ!)

私はここ最近、こうしてユウキを心の中で応援することが増えました。自分で自分を鼓舞するようなものですが、一番近くで成長を見守ってきたせいかも知れません。

考えてみたら、私は今までこんなに自分を励ましたことはなかった気がします。何となく学校に通って、無難な会社に就職して、良くも悪くもない平凡な人生…不幸ではないけど、今のユウキのように一生懸命にやってきたかと言われたら怪しい、そんな毎日を送ってきました。だから日々まっすぐ成長するユウキが何だかとても眩しく見えてしまうのです。

「あー、あー……」

「時間ですね、今日はここまでにしましょう」

頑張りは実らず、今日は特に進展はありませんでした。ユウキは今にも泣きそうな顔でお辞儀をすると、迎えに来たスタッフに連れられてトボトボとロビーへ戻ります。

「お疲れさまユウキ」

ロビーではマユが笑顔で出迎えてくれました。

「……あえあっあ。えんえん、むいあおあー」

「え?」

「あーああいおえ…おめん」

ユウキは筆談もせず一方的に言葉を吐き出すと、そのまま早足に部屋へ戻るとベッドに倒れ込み、マクラを涙で濡らしました。

(そうだよね、わかるよユウキ。悔しいよね、ちゃんと話したいよね)

筆談でコミュニケーションは確かに取れるようになった。笑い合えるようにもなった。でもそれじゃあ足りないんだきっと。

だってユウキは多分、マユのことが好きだから。

好きな人と普通にお喋りしたい、当然の気持ちだ。

スタッフの人から聞いたルールのひとつ、ここの患者同士は連絡先を交換してはいけない。過去にそれを許して沢山のトラブルがあったかららしい。そもそもユウキはマユの事をよく知らない。外には素敵な相手が居るのかもしれない。だからせめて、どちらかが退院するまでは、今だけは、気持ちに素直でいたいのだと思う。優しくされた気の迷いだとしても、もう好きになってしまったのだから。

そして数日後、先にマユの退院の日が決まった。


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