彼女が友達になった日

霜月このは

彼女が友達になった日

 それは8月の、夏にしては冷たい雨の降る夜のことだった。


 濡れた身体を温め合うだとか、互いの体温を求め合うだとか、そんな美しい言葉で包めるような情景なんて、どこにもなくて。


 ただ、腹の底が熱くて。胸の奥が苦しくて。ドロドロした言いようのない何かを切実に欲していて。


 私は生まれて初めての感覚に溺れ、それを私に芽生えさせた人の前で、ただただみっともない姿を晒しただけだった。


 そして今思えばそれが、彼女と私のはじまりだった。



 ※



 私は大学1年の春に、クラシック音楽を演奏するサークルに入部した。中高生の頃から続けているフルートを吹ける場が欲しかったのと、音楽のジャンルが好みだったというのが主な理由だ。


 大学1年の春というのは、きっと誰でもそうだと思うのだが、例に漏れず私も、とにかく冒険心と好奇心が旺盛だった。


 いくつものサークルに顔を出して飲み会に参加したし、今までの自分だったら関わらないようなタイプの人間とも、不思議と話したい気持ちになっていた。


「ねぇ君も、歌っちゃいなよ」


 なんとなく参加したその音楽サークルの、次の演奏会の曲目を決めるミーティングで、確かそんなようなことを言ってきたのが、光璃ひかりという女の子だった。


 彼女は声楽経験者で、もともとは音楽大学の受験も考えていたような人らしかった。


 一方で私は、確かに歌好きではあるけれど、ソロで歌った経験などはない。


 しかしなぜだろう。光璃の誘いを断るのは、なぜだか、すごくもったいないような気がして。


 私は無謀にも、歌い手として演奏会に参加することを決めてしまったのだった。


 その頃の光璃は、髪が長くて、黒を基調とした服に身を包んでいて、どこかミステリアスな雰囲気をまとっていた。


 だからなのかわからないけれど、次に私が彼女に会ったときは、私はそれが同じ女の子だとわからなかった。


 サークルの活動は、それぞれのアンサンブルのメンバーで不定期に行われていて、全員が顔を合わせることはあまりなかったから、というのもある。


 だがそれにしたって、その二度目の邂逅は衝撃的なものだった。


 春学期が終わり、夏休みが始まってからしばらくの間は、私は自動車の免許を取りに合宿に行っていたので、サークルのメンバーと顔を合わせることはなかった。


 免許の合宿が終わって、久々にサークルに顔を出すと、部室に見知らぬショートヘアの女の子がいたのだ。


「君、可愛いね」


 そんなチャラついたノリで話しかけたら、それは光璃だった。夏だからか白いふわふわしたスカートを履いていて、春に会った時とは大分印象が違っていた。


 春のときのミステリアスな雰囲気は、そのときとはまた別の形で、彼女のまわりの空気を形作っていて。以前のものより明るい、その輝くような笑顔を見て、私はなぜか胸がざわつくのを感じた。


 後々気づいたのだけど、多分それは、彼女が当時、恋をしていたからなのだと思う。



 それからしばらくして、どういう流れだったかわからないけれど、私と光璃は恋バナをした。


 私はがレズビアンだということを打ち明けると、光璃は自分もバイセクシャルかもしれない、などと言う。


 未知の世界へのほんの少しの興味。子猫のような好奇心。それを敏感に察知した私は、彼女にちょっとした悪戯を仕掛けたい気持ちになっていた。


 いや、単に同類のような相手に出会えたことが嬉しかったのかもしれない。


 光璃と私は、その日を境に急速に距離を縮めていった。アンサンブルの練習日には、帰りに待ち合わせて、他のサークルメンバーも誘ってカラオケに行ったりもした。


 初めて一緒にカラオケに行った時のことは、今でもよく覚えている。それはそれは驚いたからだ。


 光璃の歌声なら、サークル活動の時にも聴いたことはあったが、クラシックのときとカラオケのときとでは、歌い方は当然だけど異なる。


 彼女が歌った曲は、テンポが速くハイトーンも多い、技巧を要する曲で。それらを譜面通りに歌い上げる技術はもちろんだが、何より彼女の声の質そのものに鳥肌が立った。


 おそらく、意図的に響きを抑えられた透明感のある高音だとか、微妙なテンポの揺らぎとか抑揚だとか、子音の発し方の一つ一つ全てが美しくて、でも当時はそんなことを認識することなんてできなかったから、私はそれらをまとめて、彼女の声質として捉えていた。


 カラオケで聴くには贅沢なほど、艶々したその声は、俗っぽい言い方をすれば、溢れるほどの色気にくるまれていて。私の胸の奥は熱くて、喉がカラカラに渇いて、頭の中には甘い疼きがあった。


 後にも先にも、この曲を光璃ほど美しく歌い上げられる人はそうそういないのではないかと思われた。



 一緒にカラオケに行った日から何日も経たないうちに、光璃は一人暮らしの私の部屋に泊まることになる。


 その日もサークルの練習日で、8月の中頃だった。お盆前の最後の練習を終えて、光璃は夜行バスで実家に帰省するはずだった。


 しかし光璃は、そのバスに乗れなかった。まずその日は雨が降っていて、大学から駅に向かうバスも遅れていた。


 ギリギリの時間になんとかターミナル駅に着いたものの、バス停の場所を間違えてしまい、乗り遅れてしまったのだ。


 心配でなんとなく一緒に着いてきた私は、落ち込む光璃を励ましながら、自宅へ連れ帰った。バス停を探し回るあいだに、雨に濡れた身体は冷えていた。


 このままでは風邪をひいてしまうからと、そんなありふれた口実と共に、お風呂を貸して。自分の布団が敷いてあるロフトに、彼女を招き入れた。


 下心がなかったといえば、嘘になる。


 だけど、バスを逃したことを母親に電話で責められている光璃を見ていたら、どうしてだか、彼女を守りたいという衝動に駆られた。


 まるで自分が、光璃を、彼女の母親から奪いとらなければならないというような、そんな気持ちにさせられたのだ。


 実際、母親と話しているときの光璃はどこか辛そうで、何かできることなら、力になりたいとは、本気で思っていた。


 だけど、そんなのだって、多分、建前で。


 雨に濡れた彼女を見て、彼女と深い話をして、彼女の艶やかな声を聴くうちに。私は気づけば、光璃に触れたいと感じていた。そして、それを口に出していた。


 光璃は嫌がった。当然だ。光璃には好きな男性がいた。同じサークルの先輩だった。まだ明確に付き合ってはいなかったけれど、その時点で、付き合うのは秒読みという段階まで来ていた。


 だけど、私は彼女に触れた。無理やりに、強引に。醜くてみっともない衝動をぶつけた。嫌われても仕方のない行為を行った。それは本来、許されてはいけないはずのものだった。


 唇が疼いて、腹の底が熱くなって、胸の奥が締め付けられて、頭の中は燃えていた。それは生まれて初めて感じる衝動だった。


 誰かにこれほどまでに触れたいと思ったのは、後にも先にも、このとき一度きりだった。


 光璃は抵抗しながらも、私をからかうように言葉を返して、時折小さく声を上げた。


 艶々したその声に、また体温が上がった。やがて彼女の抵抗は意味をなさないものになり、頂上を超えて、脱力した。



 翌朝私は、光璃に交際を申し込んだ。だけど当たり前だけど、断られた。


 私はみっともないくらい彼女にまとわりついて、縋って、懇願した。


 光璃のことが欲しくてたまらなくなった。白い滑らかな肌も、ささやくような話し方も、艶々の声も、全てが私を熱くさせた。


 恥ずかしながら、まともな恋愛経験のない私は、すっかりのぼせ上がってしまったのだろう。だけど、そんな愚かな私を、光璃は受け入れてくれた。


 恋人ではないけれど、友達として。


 それは拷問に近いものだった。付き合えないのならいっそ、離れるという選択肢だってあるはずだったはずなのに、私はそれを選べなかったから。


 光璃と離れてしまうなんて耐えられなかった。私は身も心も、たった数日の間に、すっかり彼女に依存してしまったのだった。



 その日から、私と光璃は友達になった。私にとって最も親しくて、最も大切な友達になった。


 光璃はそのあと、好きだった先輩と付き合い始めた。数年後に先輩と別れると、ひとしきり私に愚痴を吐き、泣き言を呟いたあとで、今度は別の男と付き合った。


「やっぱり女の子は無理なんだ」


 結局、後になって、光璃はそんなことを言っていた。それは実際のところは嘘だったのだけど、私の傷を浅くするための、優しい嘘だった。


 時は流れ、私達は大学を卒業して社会人になった。転職をして、それを機会にルームシェアをしたこともあった。


 でも、あの夜のようなことはそのあと一度も起こらなかった。私の中にも、あのときのような衝動が生まれることはなかった。


 おそらく心の奥の、見えない部分で、ろうそくの小さな火のようになっていて。でもずっとそれはそこにあって、ちりちりと燃えている。


 レズビアンを公言していた私はそのあと、好きな女性ができることは、ついになかった。


 もう付き合いたいなんて気持ちはなかったけれど、好きな女の席は光璃で埋まっていたから、他の女が座る余地なんかはなかったのだ。


 光璃と私は、何度も喧嘩別れと仲直りを繰り返しながらも、しぶとく友人を続けていた。


 何度目かの喧嘩で疎遠になっている最中に、光璃は付き合っていた男性と結婚した。


 不思議と悔しさはなかった。むしろ逆に、不毛な思いにようやく片をつけられると、解放されたような思いだった。


 それから3年後に、私はお見合いをして男性と結婚した。


 結婚した翌年には子供を授かった。私は娘を産み、母親になった。


 好きな女の子の例外が1人生まれただけで、色々な人を好きになろうと試みたけれど、結局はダメだった。


 結局、誰を好きになっても、誰に惹かれても、私は気付けば彼女の元へ戻ってきてしまう。


 夫もついに、光璃のことに関してだけは、諦めたようだった。


 くっついて離れて。そしてまたくっついて。


 恋人でもないのに、相変わらず私達は、そんなことばかりやっている。


 面白いことがあればLINEをし、Twitterで互いの活動をチェックし合って、互いのパートナーのくだらない話なんかで盛り上がる。


 いつしか、恋愛の好きも、友情の好きも、わからなくなっていた。


 だけど今はもう、それでいい。


 恋人として結ばれる日は永遠に来なくても、友情ならそう簡単に壊れはしない。壊れてもまたすぐに復旧するだろう。それは私達の歴史が証明している。


 きっとおばあちゃんになるまで、そうやってやっていくのだろう。


 いつか互いのパートナーが寿命で死んだときだって、歌でもうたって慰め合うのだろう。


 誰よりも愛しくて大切で、最も仲の良い、友達として。

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