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痛々しさは消えたものの、ウメサクの顔の左半分の腫れがまだ引ききっていない状態で、鉻田はシラフナを離れることとなった。シラフナの文化調査を終えたためである。調査に関する報告書は、復活政府の地方自治推進委員会と、シラフナ町役場へ提出してあった。


「先生、大変お世話になりました。荒くれ者の多い漁師町の調査はさぞ苦労したことでしょう。本当にありがとうございます」


シラフナを発つ前日、シラフナ町の左前副町長が鉻田に向かって慇懃に頭を下げて言った。一応、町が開いた鉻田送別会であったが、場所は左前家の邸宅であった。


「先生の報告書、読ませていただきました。いや、シラフナの工業化政策に非常に役立ちそうです」


町役場の役人が、鉻田に酒を注ぎながらそう言った。


「前にうちを調査した先生は、都会の眼鏡を掛けていて、押しつけがましくて、非常に断定的な報告書を提出して困ったんですよ。それに比べて鉻田先生は我々の視点を尊重してくださる」


役人はそう続けた。鉻田はシラフナの人にそう言われて、嫌な気持ちはしなかった。調査においてその土地の人々の感性を尊重していることを、直に褒められたことは久しぶりで気分がよかった。


鉻田はその日の宴席でウメサクに言いたいことがあった。鉻田の調査に、文句を言わずについてきてくれたお礼と、自身が誘った酒の席で散々な目に遭わせてしまったことへの謝罪をその場でしておきたかった。だが、ウメサクは末席で静かに料理をつついているばかりで、鉻田の方へ来ることはなかった。鉻田の方も、次から次へとおべっかを言いに来る役人たちの応対に追われて、ウメサクの方へ行くことは結局できずじまいだった。


翌日シラフナを発った鉻田は、公安部県支部へ向かった。あの時、もう弾山に用はないと思い込み、連絡先を聞かずに別れたことを後悔していた。弾山には、どこへ行けば会えるのかわからなかった。


とりあえずシラフナから一番近い県支部へ行くことにしたのは、あの日シラフナの近くで自動車に乗った弾山に会ったからというだけの理由だった。だが鉻田は、そこへ行ったところで、公表されていない第七課の者に会えるという期待は抱いていなかった。


入り口のある壁は一面ガラス張りになっていて、入る前に中の様子が分かった。県支部は、直角と直線で構成された、コンクリート造りの建物だった。直線的で灰色ばかりのその建物を見た鉻田は、墓石を想起させられた。先の戦争で焼け野原になった土地に、県支部のビルだけが建っているため、遠くからでもその存在を確認することが出来た。


「公安部第七課の弾山さんにお会いしたいのですが」


鉻田は、公安部の建物に入るとまっすぐに受付へ向かった。直線的で息苦しい雰囲気は、その外観だけでなく、内装まで侵食していた。一応窓から陽は差し電灯も壊れていないものの、壁はコンクリートの灰色のままで、鉻田は薄暗さを感じていた。


「承知しました。お名前を教えてください」


受付にいた職員は、存在しないはずの「第七課」という単語に反応を示すことなく、事務的にそう答えた。鉻田は、不審がられていないことにむしろ驚いた。だが、もしかしたら不審者を下手に刺激して逆上されないようにしているのかもとも思った。自分が不審者に思われていないことを、鉻田は深く祈った。


「鉻田ヨウジです」


不審者として拘留されることを恐れた鉻田は、恐怖を押し込めて出来るだけ平坦な声を出すようにした。受付職員は彼の名前を聞くと、受話器を取ってどこかへ通話し始めた。


「少々お待ちください」


職員は、受話器をもとの位置に戻すと、鉻田にそう告げた。その曖昧な指示は、鉻田をいらだたせた。拘留されることを心配していた鉻田は、何を待てばいいのか教えて欲しいと思った。第七課があるものとして手続きが進んでいるのかを教えてほしかった。


公安部の建物は静かに時が流れていた。鉻田は戦前に見ていた刑事ドラマなどから、公安部でも手錠をはめられた犯罪者が連れていかれる光景があると思いっていたが、そんなことはなかった。きちんと背広を着た公安部の職員たちが、足音を立てずにせかせかと行き来しているだけだった。


ポン、というエレベータの到着を知らせるチャイムが鳴った。ふと鉻田はどこの役所のエレベータも同じ音のチャイムを鳴らしているような気がした。もしかしたら復活政府は一つのエレベータ製造企業とだけ取引しているのかもしれないな、などと思ったりしていた。


エレベータの扉が開くと、同じような背広を着た職員たちがぞろぞろと籠から湧き出していた。彼らはそれぞれ色々な方向へと散らばっていったが、そのうちの一人、フチなし眼鏡を掛けた中年の職員が、鉻田の立っている受付の方へまっすぐ向かっていた。鉻田がその職員に気づくころには、もう彼はすぐそこまで迫っていた。


「鉻田さん、ですか?」


眼鏡の職員が鉻田に向かってそう聞いた。その声は大げさに柔らかい口調だった。そのわざとらしい話し方を聞いた鉻田は、ドキリとした。不審者だと思われているという疑念が、一歩確信の方へ進んだと思ったからだ。


「はい。第七課の弾山さんにお会いしたいのですが」

「ええ、ええ。存じておりますよ。それでは、私についてきていただけますか」


眼鏡の職員は、頭でも下げそうな勢いで鉻田に言った。やはり不審者だと見られていると思った鉻田は、もう弾山に協力することも諦めようと思った。眼鏡の職員は鉻田をエレベータへ案内し、二人きりで十階まで行くことになった。作り物としか思えないくらいわざとらしく立派な枝ぶりの観葉植物の飾られた廊下を通って、「応接室九―は」というプレートのある部屋へ通された。


「少々お待ちください」


鉻田を椅子の一つに座らせると、眼鏡の職員はそう言って応接室を後にした。


鉻田は広い応接室に一人残されることになった。部屋の温度は空調で適切に保たれているが、四面の壁はすべてコンクリートがむき出ていて、それが鉻田に寒さを感じさせていた。これから自分はどうなるのかという不安を抱えつつ、眼鏡の職員に言われた通りに椅子に座って、何かを待っていた。


しばらくして、ドアが開く音がした。何度もそんな音がしたが、いずれも別の部屋の音だったらしく、鉻田が振り返ってもドアは閉じたままで、失望したことがあった。だからこのとき鉻田は淡い期待を抱くまいと、ドアの方を振り返らなかった。


炭酸飲料の入ったペットボトルを開けた時のような、しゅわしゅわという発泡音が鉻田の間近でなっていた。それでようやく、部屋に弾山が入ってきたことを知った。


「お久しぶりです、鉻田さん。弾山です。まさかまたお会いできるとは思っていませんでしたよ」


弾山は、耳に水が詰まったときのような発泡声帯を通した声でそう言った。


「弾山さん、お久しぶりです。先日は無礼を働いてしまい申し訳ない」

「いや、この際それは忘れましょう。それよりあの日は、歩いてシラフナへ帰ったんですか?」

「ええ。実を言うと、もう少し早く怒っておけばよかったと思ってますよ」


鉻田の言った冗談に、弾山は笑い声をあげた。


「それで、あの時の話の続きなんですが」


弾山が笑い終えるのを待って、鉻田はそう切り出した。あの日、自分で断っておいて、今更こんなことを言うのは虫が良すぎるとは思ったが、鉻田は言われるのを待つよりはいいだろうと思っていた。


「ええ、ぜひ。でもここではなんですから」


そう言うと、弾山はドアを開けて、廊下の方を手で指した。応接室よりも話すのに適当な場所があるのか不思議に思ったが、鉻田は弾山に従って応接室を後にした。

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