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「こんなことになってしまって本当にすみません。これ以降の注文はこちらで持ちますから」


ウメサクの顔に当てていたおしぼりが腫れの熱を吸ってぬるくなった頃に、新しいおしぼりを持ってきた店主がそう言った。


するとウメサクは何かをつぶやいた。客に殴られて落ち込んでいたため、声がいつもより小さく、店主は聞き返した。


「これ、もう一杯お願いします」


ウメサクはジョッキを持ち上げつつそう言った。鉻田は、いつの間にかウメサクのジョッキが空になっていることに気づいて驚いた。私も、と鉻田が言ったのを聞いて、店主は恭しく頭を下げながら厨房へ下がっていった。


店が看板になり、他の客が帰ってからも、飲み続ける鉻田たちはそのままにしていた。


それまでちびちびと飲んでいたウメサクが、他の客に殴られてから人が変わったかのようにどんどんと酒を飲んでいく様子を、向かいに座っていた鉻田は目を丸くして眺めていた。店に客は彼らしかいなくなっていた。大勢の漁師のだみ声で溢れていた時間はとうに過ぎ、奥の方から聞こえてくる店主が皿を洗う水の音と、時折うわごとのように何かを言うウメサクの言葉、そして店に据え付けてあるラジオから聞こえてくる音くらいしか聞こえてこなかった。鉻田はこの時に初めて、この居酒屋でラジオが流れていることを知った。


「さあ、続いては今週のオロカンチャート第一位、夕空トンビで『折れた金門橋』です」


若干のノイズが混じる中、若い男性のアナウンサーがそう言うと、楽器の演奏が流れ始めた。どの音がノイズでどの音が楽器なのか、鉻田には判断がつかず、一瞬戸惑ってしまったが、前奏の終盤のトランペットが奏でる独特な旋律を聞いてそれが『折れた金門橋』だということに気づいた。


鉻田は今なぜこの国でこの曲が流行っているのか、疑問でならなかった。終末戦争がこの惑星に残した傷跡は深く、今もなお残り続けていた。しかし、戦争が終わって十数年が経ち、その時の記憶にもうっすらとではあるが、靄がかかり始めていた。それは鉻田だけの話ではないはずだと、彼は思っていた。だから、なぜいま終末戦争の悲劇を語る曲が大ヒットを呈すのか疑問だった。


それに、この曲は終末戦争の悲劇のメタファーとして金門橋を選んでいるが、実際にその光景を見た者はこの国にいるとは思えなかった。それに、国内でも悲惨な戦争が相次いでいた時期に、海を隔てた遠くの国の橋が崩落したなんて話は、当時新聞のほんの一部を占めただけで、この国の人々に大した衝撃を与えることがなかったし、この曲が世に出るまで、金門橋の存在すら忘れていたものがほとんどだったはずだ。この曲がなぜここまでのヒットを叩き出したのか、鉻田には不思議でならなかった。


 金門橋は折れたけど

 二人を繋ぐ思いなら

 何があっても壊れない

 かささぎはいないけど

 もう一度会えますか


夕空トンビの特徴的なハスキーな歌声が、テレビなどでまことしやかに報道されている、灰の降るアメリカの荒野の寂しげな雰囲気を表現しているかのようだった。


終末戦争の波がこの国に到達してから今日まで、内戦への対応や今日も続く国土の復興に手いっぱいで、誰も北米大陸はおろか、近隣諸国へ行って帰ってきた者は誰もいなかった。だから、この国の人々は誰もが、大した根拠もなく報道される無人の荒野が広がるアメリカ観を疑いもなく受け入れていた。鉻田もそんな一人だった。


終末戦争が終わって、各地を回って調査をしてきた鉻田からすると、この国の戦後は熱帯雨林のように見えていた。いろいろな種類の植物が、おのおのの生存をかけて競っていく、湿った熱帯雨林のように、色々な価値観やしきたりが、それに従う人々を介して存続をかけて争っているような気がしていた。だから、陰のある雰囲気の歌声の夕空トンビはこの国の戦後の光景を歌うのには不適だと、彼は素人ながらに思っていた。


「おやじ、もう一杯」


鉻田の向かいで、ウメサクが唸るように言った。


「ウメさん、私から店で持つなんて言っておいてなんだけど、もう酒はやめときな。ウメさん、お酒弱いじゃない」


店主がウメサクの方に来てそう言った。すると、ずっと首を垂れていたウメサクが急に首をもたげて店主の顔を見つめた。


「腫れ、引いてます?」


ウメサクはそう店主に聞いた。鉻田は、よく見ればウメサクが、殴られた方である左側を店主の方に向けていることに気づいた。


「ウメサクくん、お酒も飲んだんだし、引いてるわけないよ」


鉻田が店主よりも先にそう答えた。そう聞いたウメサクは、不思議そうに、顔の左側の腫れた部分をさすっていた。随分酔っていて、腫れた部分に触れても、腫れている触感や、触れたことによる痛みを感じられていないようだった。


鉻田とウメサクの二人はその居酒屋を後にしたのは、空がうっすらと明るくなってきたころだった。鉻田はウメサクを家まで送っていくことにした。鉻田の借りている離れもウメサクの住む使用人用の下宿も左前家の邸宅の敷地内にあったが、それ以上に鉻田はここまで泥酔したウメサクを家まで無事に送り届ける責任を感じていた。


もとはと言えば、ウメサクが酔った客に殴られたことも、殴られた痛みと侮られた痛みを紛らわすために飲めない酒を飲むことになったのも、鉻田が彼を居酒屋に誘ったことが原因だった。そもそも酒が飲めないウメサクを居酒屋へ誘ったこと自体にも、鉻田は申し訳なさを抱いていた。


不快な気分を紛らわすように延々と酒を飲み、それがさらに不快感を増幅させた、嫌な酒の席になってしまったことを後悔している鉻田をよそに、ウメサクは陽気に歌なんかを歌っていた。鉻田は危険がない限り好きにさせてあげようと思い、ウメサクが道の真ん中を千鳥足で踊るように歩いているのをただ眺めているにとどめた。時折港へ向かう自動二輪が通ると、鉻田はウメサクを抱えるように道の端へ引っ張っていった。そんな時、ウメサクは車好きの子供のように通り過ぎる自動二輪に一生懸命に手を振っていた。


「金門橋は折れたけど

 もう一度会えますか」


後方から自動二輪の駆動音が近づいて来るのに気付いた鉻田が、ウメサクを再び引っ張っていったとき、ようやくウメサクが何を口ずさんでいるのか聞き取ることが出来た。『折れた金門橋』の有名なサビの部分から、さらに途中の歌詞を飛ばしたデタラメなものだった。


民家の近くを通る段になっても、鉻田はウメサクに歌うのを止めさせなかった。周囲の民家は薄いベニヤ板や樹脂板を壁にしており、ウメサクの歌声は中の住民にとっていい迷惑だろうが、ウメサクを束縛したくはなかった。普段ウメサクは、このシラフナを支配する、彼が生来慣れ親しんだ土地のとは異なる社会通念や常識に縛られていた。それでもシラフナの人々に完全に受け入れられることはなく、今日のようなことにもたびたび見舞われていた。


鉻田は思った。人類は長い歴史の中で、様々な価値観を生み出してきた。人間が自分に合った価値観を選択してそれに基づいて人生を歩めるようになったのは、長い歴史の中ではごく最近のことである。しかし、多様な価値観を生み出すまでの長い時間を費やしてまでも、人類は異なる価値観の併存を許容するまでには至らなかった。


終末戦争の直前、多様性とは名ばかりに、ただ無神経に思想、信条、主義、主張を乱立させただけの人類は、結局自らとは異なる価値観を持った別の集団と相容れることはなく、破壊的全球規模終末戦争へと突き進んでいった。終末戦争は人類を惨劇の渦へ落としこんだが、それでも彼らは異なる集団と併存する必要性を知らないままだった。


ウメサクは千鳥足でくるくると回っていた。鉻田は彼の目が泣いているかのように赤いのに気が付いた。恐らくは酒を飲み過ぎたせいだろう。鉻田は、回転したまま民家の壁にぶつかりそうになるウメサクの肩を両手で掴んで、進むべき方向へ体を向かせてやった。


鉻田は先日、シラフナから北へ行ったところで見た、四基の庚申塔のことを思い出した。庚申の日を特別視するという考え方は道教に基づくが、その日の夜に念仏をあげるというやり方は、古来この国の人々が行っていた先祖崇拝の儀礼に由来するという学説の存在を思い出した。


道教の影響を受けたこの国における庚申信仰も、山崎闇斎によって猿田彦の要素が加わったのみならず、神道や仏教の影響を受け、三猿や青面金剛、帝釈天の要素が加わっていった。それによって、庚申信仰をする人々は道教思想と同時に神道や仏教の教義の影響を受けることになる。


あの学説が正しければ、例えば青面金剛と三猿が彫り描かれた庚申塔があったとして、その源流には古い時代から続けられてきた先祖崇拝があるということになる。鉻田は、酒が回った頭でそう考えていた。

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