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「危ねえじゃねえか馬鹿野郎」


何もない床に千鳥足が引っかかっただけのはずだが、当の本人はウメサクの椅子の脚につまずいたと思ったらしく、ウメサクに向かってそう吐き捨てた。ウメサクは委縮して、まるでカメのように首を縮めた。


「すみません」


ウメサクは、後ろの客の方を振り向かず、前を向いたままそう言ったようだった。もっとも、鉻田はそんな風な口の動きを見ただけで、耳で聞くことはできなかった。だが、背の小さい客は虫の居所が悪かったらしく、ウメサクの謝罪では怒りが収まらないようで、まだ彼の後ろに立ち止まっていた。もう一人の客は背の高い男で、背の小さい方の肩を押さえて制止しているようだった。


「テメエ、ウメサクじゃねえか。だろ?左前さんとこのタマナシの」


背の小さい方は、静止を振り切って、まだウメサクに絡んでいた。


ウメサクはそう言われていたが、女性と結婚していたし、そういうわけではなさそうだと、鉻田は思っていた。だが、彼の穏やかな性格や言動は、シラフナの人々が抱いている理想の男性像とかけ離れており、時に人はウメサクを「男らしくない」と言って軽蔑することがあった。


シラフナでは、男は専ら漁業に従事していた。海上は波の音や、船のエンジン音が轟き、大変騒がしかった。リゾートの砂浜で見るような穏やかできれいな海は、実際のところ海のごく一部でしかなかった。漁船が操業するような海域は、陸上という温室で育った人間に対して無慈悲な場所だった。船縁を一枚隔てて向こう側は死の国とも、地獄とも形容されているくらいである。


さらに終末戦争が、海が人にむき出す牙を鋭くした。どこに潜んでいるかわからない攻撃用潜水艦や、後のことを何も考えずに海に投入された化学兵器、さらに戦争が始まってから増え始めた異態生物。これらの内、いつもどれかが人の命を狙っていると言ってもおかしくない海上で仕事をする人々にとって、一瞬の遅れが致命傷となりえた。だから、聞き間違いを防ぐために、シラフナの人々の言葉は、違いが分かるように発音がはっきりとなったり、単語が聞き取りやすく転訛していった。シラフナで転訛した単語がよそから聞くと荒っぽく聞こえるというのはそう言うことが背景にあった。


さらに、いつ死ぬともわからない漁師たちの間では、死を過度に避けるようなことはしなくなっていたと、鉻田は考えていた。もちろん彼らは人並みに死を怖がっていた。だが同時に死が誰にでもあり、避けようもないものであるという諦めた感情も広く抱かれていた。もしかしたら、悲惨な終末戦争も、死への諦念を広めることに大いに役立っていたかもしれない。


死をしょうがないものとして受け入れた彼らは、比較的に未来のことを考えなくなっていた。三年後も生きているかわからない状況で、五年後のことを楽しみにして今静かに耐え忍ぶよりも、今生きているうちに、やりたいことをやっておくという考え方はシラフナの漁師のみならず多くの人々が尊重していた考え方だった。だから彼らは、比較的気が強く、気性が荒い、喧嘩っ早いといわれるようになっていた。それが彼らの考える理想の男性としての生き方だった。


鉻田は安易なクラスタリングは避けたいと思っていたが、ウメサクに関して言えばずっと後、成長して食べられるようになってからのことを考えて作物を作るために、比較的先のことを考えている農民的な性向の持ち主だと思っていた。それは今とその直前、直後のことばかり考えて行動に移すことが多いシラフナの人々が「善」とする生き方とは異なっていた。異なっているだけならば構わないのだが、一部では善い生き方を避けているように見えると言って、この客のようにウメサクのことを侮蔑する人々も珍しくはなかった。


これは別にシラフナの人々の気性が荒いからというわけではないことを、鉻田は知っていた。彼は以前、シラフナからさほど遠くないアユサカという農村で調査した時に、シラフナで育ってという女性と出会った。シラフナの人々のほとんどがそうであるように、彼女もまた気が強かった。彼女が意識していてもその言葉の端々にシラフナの訛りが表れてしまっていた。当人にその気はないのだが、人との関わり方において穏やかなことをよしとするアユサカの人々の目に、その女性は乱暴な女に映ってしまっていた。アユサカの人々は影でその女性について「ろくでもない女で、嫁の貰い手がいない」と口をそろえて言っていた。


篤く先祖供養を行うアユサカの人々の間では、死んだ後に自身の孫子によって所定の回数法事をあげてもらわなければ、地獄へ落とされると考える者が多く、「嫁の貰い手がいない」や「嫁も貰えない」という文言は、彼らにとって「死んでも地獄へ落とされる」ということを意味する最大の侮辱表現であった。


「楽しい宴を壊してしまって本当に申し訳ありません。今日は海が時化ていて、荒れてる漁師が多くって。あいつらの親方に、絞ってもらうよう言っておきますので」


店主はそう言って、ウメサクにおしぼりを渡した。ウメサクは声を出す気力もないのか、うなだれた状態で軽く頷いておしぼりを受け取った。彼の顔の左側は真っ赤に腫れていた。


椅子にぶつかったか何かで別の客に絡まれたウメサクは、大した反応を見せないことでやり過ごそうとしていた。だが、絡んできた客はそんなウメサクが謝ってこないとさらに激昂して、ついには拳をウメサクの顔に叩きつけたのだった。騒ぎを聞きつけた店主がすぐに客を店から追い出したが、結局ウメサクはその客に二度顔を殴られることとなった。

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