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シラフナの港のすぐすぐそばにある居酒屋は大変繁盛していた。口調の荒いシラフナの人々は、安く粗悪な酒を大量に飲んでさらに口汚くなっていた。店内は大変騒がしく、鉻田は向かいの席に座っているウメサクと会話するにも、叫ぶように声を出さなければいけなかった。ウメサクの声は生来小さく、本人が努めて大声を出そうとしたところで、大した声量にはならなかった。そのため相手の言葉が周囲の喧騒にかき消されてしまう鉻田はほとんど一方的にしゃべっているようなものだった。


「都会の奴らは、十分な金と安定した生活を与えればいいと思いがちだが、全人類、いや全国民が安定しているからと言って合理化され尽くした生活を送りたいと思っているわけではないだろう」


鉻田が叫ぶように言うと、ウメサクは微笑みながらうなずいて、二、三言分くらい口をパクパクと動かした。いつの間にか鉻田はウメサクを見下ろすような形になっていた。背丈はウメサクの方が高いのになぜそのようになるかと言えば、ウメサクの座っているキャスター付きの椅子についている高さ調節用のシリンダが故障し、何もしなくても人が座っただけで下がってしまうからだ。彼らがいたその店は、ありあわせの物を集めてきてどうにか店としての体裁を整えており、それを構成するパーツに統一感は一切なかった。オフィスで使われていたようなキャスター付きの椅子に座るウメサクに対して、彼の向かいに座る鉻田は、病院にあるような丸いスツールに座っていた。


鉻田が周囲に首を巡らすと、別のテーブルに鉻田が座っているのと似たスツールが置いてあった。二つはまったく同じではないにしろ、スツールでまとめただけでも見た感じの統一感は向上するような気が、鉻田はしていた。しかし鉻田は、他の客をしばらく観察していて、彼らが頻繁にテーブル間を行き来していることに気づいた。その際にテーブルの間を椅子が行き来しており、酔っ払った客が持ってきた椅子とはまた別の椅子を持って元のテーブルに戻ることも多々見受けられた。こんなことが多いから、店主も諦めてテーブルごとに椅子をそろえるのをやめたのかもしれないと鉻田は思った。


しかし、一つのテーブルに高さが違う椅子を置かないで欲しいと鉻田は思っていた。鉻田が一方的に愚痴をこぼす形になるのは、店の繁盛によるもので鉻田が咎める筋合いはなかったが、ウメサクを見下ろす形になってしまうのは、高さに対する野生の感覚で鉻田がウメサクを押し付けているようであまりいい気分ではなかった。


ウメサクが何を言っているのか聞こえないので、鉻田はとりあえず自身の言ったことが肯定されたと思い込むようにした。酒のおかげもあり、そう思い込んだだけで鉻田は愚痴をこぼすことにとりあえずの満足感を抱いた。いつの間にかウメサクを無理やり酒の席に付き合わせているのではないかという心配は、鉻田の頭の中で、アルコールの霧によって隠されてしまったようだった。ずっと喋って口内が乾いた鉻田が自分のジョッキを持ち上げると、それは彼の予想を超えて高く持ち上がった。空のジョッキの中で、氷が動いてカラカラと鳴っていた。鉻田は自分が結構な速さで飲んでいたことに驚いた。テーブルにジョッキの他には、お通しのスイカの皮の糠漬けしかなかった。


鉻田とは対照的に、ウメサクのジョッキは大して減っていなかった。鉻田は、ウメサクがジョッキに口を付けた光景を、一度も見た覚えがないことに気づいた。鉻田に見下ろされて、恐縮しているのかと思い、ウメサクに身振りも交えて飲むように促した。だが、ウメサクは理解していないのか、下戸なのか、どうとでも解釈できるような曖昧な微笑を浮かべながらヘコヘコと頷くだけだった。


鼻の奥にツンとくるアンモニア臭がして、鉻田は思わずその原因を探しだした。そしてそれはすぐに見つかった。


「刺身三点盛りです。先生、今朝獲れたからおいしいよ」


店主はよく通るしゃがれた声でそう言うと、鉻田に愛想よく笑いかけた。笑みで絞られた瞼の奥に収まっている緑色の瞳は、店主がもともと海上で仕事をしていたことを伝えていた。鉻田はそのしゃがれ声は船上で鍛えられたものだろうと思っていた。


「ありがとう。でも、ここの魚はいつもおいしいじゃない」


鉻田は慣れない大声でそう言ったが、店主に伝わっているかどうかは自信がなかった。


「それからこれと同じものをもう一杯頼むよ」


鉻田はできるだけ伝わるように、ジョッキを持ち上げてそれを指さしながらそう言った。


「わかりました。ありがとうございます」


店主は鉻田の言葉が聞き取れたのか、そう言うと奥へ鉻田たちのテーブルを離れていった。店主の歩き方はどこかぎこちないものがあった。しかし、先の戦争に従軍し負傷した人々は多く、彼らのほとんどは店主よりも目に見える形でその傷を引きずっているため、人々の目に店主が特別目立っているというわけではなかった。


店主は漁師をやっていた時に網に掛かった烏頭烏賊に気づかずに踏んでしまい、その右足を噛まれたという。ウズイカに噛まれて生き残るためには、その毒が回る前に右脚を腿から切断しなければならなかった。幸い当時は戦中で、軍が大量生産した培養代替生体部品は闇市にたくさん流れており、店主もすぐに新しい右脚を手に入れられたそうだ。当時大量生産されていた生体部品は不良品ばかりで、彼の新しい右脚も例に漏れずそうだった。以降、漁での力仕事が困難となり、陸へ降りて居酒屋を営むようになったそうだ。


以前店主に居酒屋を開く経緯を聞いていた鉻田は、店主がぎこちない歩き方をする理由も知っていたが、その話を半ば信じられないでいた。鉻田はシラフナへ来てから何度かこの店に足を運んでいた。シラフナの漁師は気が荒いものも多く、店内で泥酔した客同士の喧嘩が始めるのも珍しくなかった。そんな時に店主はすぐに飛び出してきて、彼らを簡単に店から外に出していた。相手が酔っ払っているというのもあるが、ある時シラフナ一の力持ちだという巨漢をやすやすと鎮めて店から追い出していたのを、鉻田は目撃していた。


「お待ちどうさま」


店主はすぐに鉻田に酒を運んできた。鉻田はその名前をいつも忘れてしまうが、大陸でよく飲まれている酒でというのは覚えていた。早速一口飲むと、強烈なスパイスの香りが鼻を突き抜けた。飲み込むと液体は大声を出し続けて荒れていた喉をしばらく痛めつけていた。


鉻田は咳き込むのを我慢して、刺身を一切れ食べた。今度は不快なアンモニア臭が鉻田を襲った。海洋に未だに残る残存水溶性化学兵器を落とすためにホルムアミド洗浄を施してあるためだった。その強烈なにおいは安全な海産物であるという証拠だった。彼はもう一度、スパイスのきつい酒を飲み、刺身のアンモニア臭を口から取り去った。


そもそも、このスパイスの効き過ぎた酒自体、工業用エタノールの飲めたものではない風味を誤魔化すためのものだった。だが、この町の気性の荒い大酒飲みたちは、酔えれば味は何でもいいようだった。だからこの大陸からやってきたマズい酒を安いからと言って好んで飲んでいたのだろう。


店の入り口が開いた。サッシに詰まった砂粒が擦れる耳障りな音が鳴ると、店の前の海から波が打ち付ける音が店内に届けられた。もう一度、砂の擦れる音がすると、それを合図に波の音は店の中から締め出された。


「おやじ、ふたりね」


入口の方から、男の野太い声がした。既に別で酒をたらふく飲んできたようで、その声は呂律が回っていなかった。だが、口調は陽気とは程遠いものだった。何かへの憤りを紛らわすために、酒を飲んでいるかのようだった。


「すみませんが、奥の方でいいでしょうか」


店主が、店の喧騒に負けない声量ながらも愛想のよさが伝わる声で言った。


「奥しか空いてないの。まあいいや。奥でいいよ」


入口から残念そうな声がした。「奥の方」と言っていたのは鉻田たちが座っているテーブルの隣のようで、その前にそこにいた客は鉻田たちと入れ違いのような形で店を後にしていた。その席を照らすはずの電灯は割れて、中のフィラメントがむき出しになっていた。四脚あるうちの半分は脚の長さが異なっていて、もう半分は座面に詰められていた綿がなくなっていた。見るからに居心地の悪そうな席で、鉻田は来たばかりの客が気の毒でならなかった。かといって、鉻田に何かできる訳でもなかった。


二人の客は、奥の席へ行くために、ウメサクの後ろを通った。既に酒を飲んでおり、危なっかしい足どりで歩いていた。特に前を歩く背の小さい方の男は、一歩足を進めるたびに右へ、左へユラユラと揺れていた。鉻田が、ウメサクの頭越しに彼らを見ていると、心配していた通り、小さい方が突然不自然に前につんのめって立ち止まった。

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