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朝早く、鉻田はシラフナの海沿いの道を走る三輪樹脂車の後部座席に座っていた。このリクシャーは、運転手のウメサクと一緒にシラフナの調査の間、町役場から鉻田に貸し与えられていた。しかし実際のところこれらは、シラフナで随一の豊かさを誇る漁師であり、町の上役も務める左前家の所有物と使用人であり、調査も名義は町だが実質的には左前家から個人的に依頼されているようなものだった。
「今日は海風も心地よく、いい天気ですね。海沿いを走るのも爽快ですね」
ウメサクはハンドルを握りながらそう言った。
シラフナは港町であり、住民の大半は漁師だった。左前家のように、漁師をしながら町役場に務める者もいた。波が船にぶつかる音や、船に積まれた粗雑なエンジンの轟音に包まれた海上を職場として、生命の危険と隣り合わせになりながら仕事をする漁師の口から出る言葉たちは、騒がしい場所でも素早い意思疎通を可能にするためなのか、陸でも荒々しくなりがちであった。それは単語の発音でも、音の出し方でも彼らの言葉は比較的荒々しかった。
比較的荒っぽい印象を受ける漁師言葉が飛び交うシラフナでは珍しく、ウメサクの言葉遣いは穏やかだった。彼の発音はどちらかと言えば曖昧で、けたたましい簡易樹脂エンジンを積んだリクシャーの上ではなかなか聞き取りにくかった。以前、鉻田が生まれを聞いた時、彼はシラフナから北に行ったところにあるヒエマタと答えた。それを聞いた鉻田は、彼のシラフナでは珍しい言葉遣いにも納得した。
農村のヒエマタで多分に漏れず、ウメサクは農家の家に生まれた。彼の上にはすでに兄が二人いて、家業は長兄が継ぐことになり、多くの農家の次男、三男と同様に彼もまた働き口を求めて漁業が活発なシラフナに流れてきたと言っていた。
「ウメサクくんは海が好きかい」
鉻田は運転席の方に身をかがめて、さらにエンジンの音に負けないように声を張った。
「ええ。郷ではこんなに広大な水を見れませんからね。鉻田さんはお好きですか」
「あんまりだね。戦争中に乗っていた戦艦が沈んでエラい目に遭ったからね」
鉻田は冗談めかしてそう言うと笑い声をあげたが、すぐさま自らの失敗を悟り、口を閉じた。彼はウメサクの次兄が潜水艦の中で戦死したことを思いだしたのだ。
海はここ数日の様子からは想像できないくらい凪いでいて、波の音はうっすらと聞こえてくるだけだった。二人が押し黙ったリクシャーの中では、エンジンの騒がしい駆動音が余計に大きく聞こえていた。しばらくして多数のカモメが鳴く声が束になって、そんなエンジンの音に負けずに車内に入り込みだした。小学校の椅子を流用したらしい、リクシャーの木製の固いベンチの上で居心地の悪さを感じていた鉻田は、カモメの鳴き声がよく聞こえることに気づいて空を見上げた。小さな港町のどこに隠れていたのか、多数のカモメが町の上を飛んでいた。カモメはいずれもリクシャーの進行方向とは反対に向かって進んでいた。
鉻田が突然多数のカモメが出現したことに気づいてからしばらく経ってから、彼はリクシャーの音が静かになったことに気づいた。彼の乗るリクシャーがすれ違う車や歩行者の数が増え始め、ウメサクがぶつからないように速度を落としていたのだった。ずっと上を向いていて首が疲れた鉻田は、周りの様子の急変に再び驚いていた。彼の目にはカモメと住民が同じ時間に同じ方向に向かって移動している様子が、とても奇妙なふうに映っていた。特にいつも穏やかなシラフナの人々が、一つの方角へ向かって脇目も振らず進んでいく様子は珍しい光景だった。
言葉遣いは荒っぽく聞こえるものの、早朝の漁以外は基本的に時間に無頓着なシラフナの人々がこんなに急いているのを鉻田は初めて見たような気がした。彼はいつもゆっくりと流れる時間の中で生きている人々をここまで急がせるものに惹かれ、それを自身に目で確かめたいと思った。ウメサクに停車するように命じてから、彼はすれ違った通行人の青年を呼び止めて、何しに行くのか尋ねた。
「挟箸さんとこが豊漁なんですよ」
青年は早口で言うと、すぐにリクシャーから離れていった。短い間鉻田の目に映った青年の顔は上気していて、目も血走っているようだった。考えてみれば、人々もカモメもそろって港の方へ向かっていた。通り過ぎていく人をよく見てみれば、彼らは青年と同様に興奮しているようだった。
「なんで彼らは豊漁だと港へ行くの」
鉻田はウメサクに聞いた。シラフナの漁師が豊漁となり、人々が興奮する様子は、ひと月シラフナ調査をしていた鉻田も初めて見るものだった。
「一応挟箸家の手伝いに行くんですが、実際はその後のお祝いで振舞われるごちそう目当てなんですよ」
それを聞いた鉻田は、彼らが興奮するのも当然だと思った。挟箸家は、左前家と並ぶシラフナの大漁師の家だから、上等な酒もたっぷり振舞われるのだろう。この町は酒好きな人々が多く、戦前の豊かな時代は町の祭りでも酒が重要視されていた痕跡があるくらいだった。しかし昨今、庶民には命の危険に関わるくらいに粗悪な酒ばかりが出回るばかりで、人々は慢性的に酒に飢えているようであった。
「お祝いって私でも見れる?」
「ええ。ルグサでやるんで見れますよ。行きますか?」
「行こう」
リクシャーは方向を変えて、元来た道を戻り出した。だが、道はごちそう目当てで港に向かう人々で溢れ返っており、リクシャーは思うようには進まなかった。港までの道は人々が勝手に建てたバラック小屋の間の細い空間が自動的に道となったに過ぎず、たくさんの人々が滞りなく進めるはずはなかった。上空では豊漁に遅れて気づいたカモメが、最盛期よりも少ないものの、群れを作って港の方へ向かっていた。鉻田は頭上の開けた空間を羨ましそうに眺めていた。
鉻田が港へ着くころには作業は終わっていて、港へ向かっていた人々は皆、ルグサへ向かったらしく、数人の漁夫だけが挟箸家の漁船で後片付けの作業をしていた。彼らは全員、顔全体を覆う防毒マスクをかぶっていた。古くから船の外は地獄と形容されるくらい、漁業は危険な職業だった。さらに、戦争で各国が闇雲に撒き散らした化学兵器の残滓によって海が汚染され、危険性が勝手に増大していた。防毒マスクを着けて、呼吸も満足にできない環境で仕事をしたとしても、結局は化学兵器に体を侵されて早世することが多い職場だった。だからこそ、今日のようにおめでたい時には、町中の人々を呼んだ盛大な祝宴を開きたくなるのだろうと、鉻田は思った。
ルグサは港からすぐの場所にある。鉻田はウメサクにリクシャーを適当な場所に停めておくように命じて、自身は徒歩でルグサへ向かった。ルグサは港を見下ろせる場所にある広場にあった。
ルグサには人が詰めかけていて、鉻田はその奥までは見ることはできなかったが、時折奥の方で紙垂が不自然に左右に振られているのを見る限り、もう神官が何らかの儀礼を執り行っているようだった。
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