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三人が乗り込むと公安部の公用車は静かに走り出した。


「申し遅れましたが、第七課の弾山です」


背広がそう名乗ったが、男は曖昧に返事をするだけだった。


男が心ここにあらずという状態はそれからも続いた。乗車してしばらく経っても、いまだに男は尻の置き方を試行錯誤していたからだ。自動車の席を包むクッションは男には滅多にお目に掛かれないほど上等なもので、とても柔らかかった。シラフナでの調査にあたり、町で一、二を争う漁師の左前家が貸し出してくれたリクシャーの固い木製ベンチとは比べ物にはならなかった。しかし固い椅子に座り慣れていたからこそ、男はこの柔らかい席にどう座れば楽なのかがわからなかった。固い椅子の上に座って、エンジンが荒ぶるままに尻を叩かれるのと比べて、新式自動車の車内は、席は上等でエンジンも静かで座り心地はいいはずだった。だが、慣れない柔らかさの席の上ではどうも無理な体勢を取ってしまうようで男の腰が悲鳴を上げていた。


隣を見れば、発泡声帯の背広が慣れた様子で席に座っていた。その様子を見て、男は背広が自分とはまったく違う生活をしていることを実感し、背広がずっと離れた存在であるように思えた。後部座席の真ん中に分厚い鉛の壁でもあって、全く話が通じないのかもしれないと男は思うようになった。そして彼は彼らへの協力を承諾したことを後悔し始めていた。このまま話の通じない相手と意味のない話し合いをして時間をつぶすよりも、弾圧を受けることを覚悟で、民衆の調査と報告書の作成をしたかった。


「先生、ご協力いただけるということで、大変感謝しております」


弾山と名乗ってから男が落ち着くのを黙って待っていた背広は、隣に座った男に見つめられていることに気づいて口を開いた。背広は見つめられることが、話を始めるように促されているのだととらえたからだった。


「私に何ができるかわかりませんが」

「いえいえ、そんなことありませんよ。それではまずですね…」

「ちょっと、その前にいいですか」


男はそう言って背広の言葉を遮った。背広は言葉を止めたが、話すつもりだった分だけ喉から微かな発泡音をコポコポと鳴らしていた。


「公安部は四つしか課がないはずでしょう。第七課ってのは聞いたことがない」

「公表されていませんからご存知ないのも無理はありません。それに第七課はまだできたばかりです。われわれ七課は公安部の他の課と違い、犯罪の捜査を目的としていません。治安の悪化を未然に防ぐことを目的としています」


そう背広が言うのを聞いて、男は少し警戒心を強めた。予感していた鉛の壁の存在が男の中で確信に近づいた。自動車は川沿いを北に向かって進んでいた。しばらく走っていたためシラフナからはだいぶ離れてしまっているだろう。しかし、川沿いを走り続けていたため、いざとなればそのまま逆方向を歩いてシラフナまで帰ろうと、男は覚悟を決めていた。背広は男の心が少し離れたことに気づいていないのか、話を続けていた。


「釈迦に説法かもしれませんが、何を善しとするかの方向性は地域によって異なるわけです。それは国境の隔てなくともその差異は認められます」

「ある地域で精神的な不調だと見受けられる言動が、別の地域で推奨され、尊敬されているとかですね」


男はそれを文献の中ではなく、各地での調査を経てはっきりと実感していた。シラフナなんかは喧嘩っ早く、比較的荒々しい性格が善しとされるが、シラフナから北へ行ったところにあるヒエマタという農村では比較的穏やかな性向が好まれていた。だがそれはそのムラの主要産業によらなかった。シラフナと同様の港町でも穏やかな者が善しとされる場合も珍しくなかった。


「そこで善悪の方向性に対する文化の機能を活用し、市民社会および国家の維持をはかろうと考えています」


背広は悪気がないのか、きっぱりとそう言い切った。背広の言葉はつまり、人々の文化を統制するということを意味しているのだと男は理解した。背広の水を通したようにくぐもったその声が、男に本当に水と空気で二人の空間が別れているかのように思わせた。


男には公安部や復活政府が文化の機能を社会の維持に用いようと考えた道筋が予想できた。先の戦争での主たる要因として、社会における価値観が多様に分化し、それらが分断され互いに自らの絶対的正義と他の価値観の蔑視の姿勢が挙げられている。今後それを防ぎ、平穏な市民生活を存続させていくには、価値観の多様化を抑える必要があると官僚が、この自動車の席くらい柔らかい椅子の上で判断したのだろう。先の戦争が勃発するさまを見てきた人々が、価値観の多様化が破滅的な争乱に直結するという恐怖心を抱くのは理解できないわけではなかった。しかしながら価値観の統一はそのコミュニティの性向を極端化する危険性がある。男はその事実を実体験として知っていた。


そんな巨視的な視点から離れていても男は文化の機能の活用には反対だった。文化を活用するということは、権力者による市民への強制的な文化の押し付けが発生する。彼が今まで各地で人々の生活を調査してきた。それは、彼らの文化を尊重しつつ、復活政府の目指すある程度の中央集権化が進められることを目的としたものだった。


復活政府による国土の統治自体には男は賛成だった。政府を存続させ、平和を維持していく必要があるとも考えていた。だが、平和の存続を理由に人々の文化を統制することに関しては一切首を縦に振るつもりはなかった。


「復活政府は平和を維持する必要性を感じています。すでに公設学校における平和教育の拡充は行われています。しかし、平和の大切さ子供たちに教えるのに、教科書の黙読だけでは不十分である恐れがあります。今後、この国で平和な状態を永続させていくためには、国民の性向を平和主義的方向へしていく必要があると考えているのです」


背広は続けてそう言った。男は背広が話している間、口を挟まなかった。ここで何かを言っても、議論は平行線を保つだけだろうと思い、男は何も言わなかった。自動車は戦前に使われていた鉄道橋の横を通った。戦争によるものか、それとも単なる劣化によるものなのか、橋は真ん中あたりで真っ二つに折れて川に浸かっていた。


背広はしばらく黙っていた。男が何か言うのを待っているようだった。男はそれからようやく口を開いた。


「あなた方はつまり、文化や宗教の強制による国民の統制を考えているのですね」

「いえ、誤解を恐れずに言えば我々は宗教ではなく、信仰で平和を維持していきたいと考えています」

「信仰、それから呪術についても、宗教と相成れないものではありません。教団組織や経典の整備度合いで曖昧に変化していくものです。ですから、国家が推奨する信仰形態を提示することも文化帝国主義にあたるのではないですか」

「国家が押し付けるのではなく、あくまで人々が選択していく形で広めていきたいのです」

「最後は国民にその責任を押し付けるのですか」


男の問いに背広は何も答えなかった。背広は何も言うことはできなかった。


「それは国家としては酷く怠惰なものではないのですか」

「自由の尊重と社会の維持の二点を鑑みて導出した折衷案です」

「つまり文化帝国主義路線で政策を進めることを認めるのですね」

「先生の仰る『文化帝国主義』にはあたるのでしょう」


背広はそこで息をついた。それから口に諦めたような笑みを浮かべて続けた。


「先生も先の戦争を、それが起きる前の経緯からご自身の目でご覧になってきたでしょう。『多様性』だ『寛容』だと口先で言っておきながら、結局人間は自分と異なる存在とは相容れないんですよ。このまま国中に無数の小さなムラを残しておけば、また要らぬ争いの火種になるだけです。この国土を一つの社会、一つの国家として維持し、平和に保っていくためには、文化を画一化し、善悪の方向性をそろえ、国民同士がお互いを同類だと認めあえるようにする必要があるんですよ」

「私は文化や信仰を押し付けることなくても、それぞれが異なる文化を保ちながらでも、国民同士が互いを同じ国民だと認めあえるような社会を目指して、今日まで文化調査をしてきたつもりです」


男の言葉を聞いて、背広は残念そうな表情を浮かべていた。第七課、ひいては復活政府の計画への協力が得られそうもないと判断したからだった。


「すみません、ここで降ろしてもらえますか」


これ以上車内で何を聞いても、何を言っても無駄だと判断した男は、身を前に乗り出して運転席の公安部員にそう言った。運転手はバックミラー越しに伺うような目線で発泡声帯の背広の方を見た。鏡に映った像が首を縦に動かすのを認めると運転手は自動車を停めた。


男は停車したのを確かめて、ドアを開けた。下車すると、ドアを閉める前に一度身を車内へ入れた。


「申し訳ないが文化統制について協力することはできない。だが平和維持の必要性は痛感しているし、それを復活政府がやるのも賛成です。また別の形でならあなた方に協力するのもやぶさかではないので。」


男はそう言うと、ドアを閉めて、自動車で来た道を戻りだした。新式自動車は相当速いから、シラフナからは随分と離れてしまったのだろう。車内では徒歩で帰ることを覚悟していたが、いざ歩き出してみると、その気持ちも揺らぎだしていた。男は徒歩で帰るならもっと早い時点で車から降りればよかったと後悔していた。


シラフナの調査が思い通りに進まず、代わりに話の通じない官僚との話し合いに無駄な時間を費やすことになり、そのせいで長時間歩くことを強いられたといういらだちは、男の心の中でドシンと居座っていた。男を待つことなく残酷に沈んでいく太陽や、酷くなっていく足の疲れは、男の苛立ちを増大させていた。


男がシラフナに着いたのは日がとっぷりとくれた頃だった。調査する間、離れを借りている左前家の使用人に夕食を運んでもらうように頼むと、男はまっすぐに離れに行き、ベッドへ倒れ込んだ。


長い距離を歩いてきた疲労は、男をすぐに眠りに落とした。男が次に気が付いた時には夜も更けていた。掛布団を掛けずに眠ってしまったため、男の喉はカラカラに乾燥しきっていた。男は水を飲みに行こうと、寝ぼけまなこでドアを開けると、そこには時間が経って冷え切った夕食が置かれていた。それを見て、男は自身がとても空腹であることを思い出した。使用人が取り損ねた魚の小骨や鱗を気にせずに、男は冷たい夕食を一気にかき込んだ。


腹が満たされると、寝ぼけていた男の頭は一気に冴えた。このまま横になっても、なかなか寝付けなさそうだった。そこで男は、生活リズムがずれる心配をよそに、今日の調査の間に書きつけたメモを見返しだした。その日の後半は公安部第七課に車で連れまわされたのと、その分を歩いて戻るのに費やしたため、その日の分のメモは大した分量ではなかった。


戦後の工業の復興は進んでいるとはいえ、まだ地方に十分な電灯が供給されていなかった。男が借りている離れでも、電灯は戦前に賑わっていた歓楽街から拝借したという氖灯ネオンランプが使われていた。そのトゲトゲしい光は手元のメモを見るのには刺激的過ぎで、男の目を強引に覚ますだけでは飽き足らず、無駄に疲労させてもいた。


男は昼間に書いた、シラフナの北にある庚申塔についてのメモを眺めていた。メモを見て四基の内、新しい方の二基には、残りに彫られていなかった「猿田彦命」の文字があったのを思い出した。それで次に男はそれらの建立年に着目した。予想通り、二基目と三基目の庚申塔が建てられるまでの時期は、山崎闇斎の活躍した時期と重なっていた。


彼の活躍以後に庚申塔に「猿田彦命」の文字やその姿をよく彫られるようになったということ自体は、ずいぶん昔から指摘されてきたことであった。だが、公安部の者と信仰の押し付けに関する話をしてきたばかりの男にとって、そのことは大きな意味を持っていた。


山崎闇斎は、終末戦争よりも遥か以前の神道の宗教家だった。彼が活躍していた時代、庚申信仰は国民の間で広く行われていた。そこで彼は神道の布教を企図して、もともと神道とは違う系統の信仰であった庚申信仰と、神道で信仰される猿田彦の関連性を唱えた。その後彼が唱えた説は国中に広く知られることとなり、庚申塔に「猿田彦命」の文字や姿が彫られるようになる主たる要因となった。


男は山崎闇斎の庚申信仰への影響を思い出した。その事実を知識としては知りつつも、男はどこかで、権力者による政治的判断の影響下にあるような宗教と違い、庶民の信仰は永い時間を経ても大きな変質を起こさずに伝わっていくものであるものだと思い込んでいる節があった。庶民の信仰形態が旧来と変化したとしても、それは誰かが図ったものではなく、時間の経過によるものだと思っていた。ましてや一個人によって永らく続いてきた信仰が変化することはないと思っていた。そんな男にとって、その日見た四基の庚申塔は、忘れかけていた事実を改めて認識させるきっかけとなった。


それ以降の頁に何も書かれていないことを確かめると、男はメモを閉じてベッドに横になった。氖灯の突き刺すような光は、目を閉じると跡が見えるほどで、男はなかなか眠りに就けなかった。

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