マレビト・ファンクション

厠谷化月

一章-漁村-

1-1

シラフナと呼ばれる港町を流れる川に沿った道は閑散としていた。ほんの十数年前まで子供の声で賑わっていた住宅地だったとは思えなかった。だが首を巡らせて、周囲に建ち並ぶコンクリート造りの建物を見ると、廃材や流木を使った粗末な家や店が肩を寄せ合うシラフナ中心部よりはずっと近代的な風景が広がっているのに気付く。しかしそれらも長い間放置されているため、よく見てみるとひび割れやツタに覆われて、住めたものではないことがわかる。


男はその道をシラフナから離れる方向に進んでいた。町から数十分かけて歩いていると、道端に四基の石塔が建っているのに気付いた。男は歩調を速めてそれらの石塔に近づいていった。


男がシラフナに滞在し、住民に町の歴史や習俗などを聞いていると、長いこと海上で仕事をしているせいで、海水に溶け込んだ残存水溶性化学兵器の影響を受けて、目を真緑にした老人に町の北の石塔の存在を教えてもらった。老人の生まれる前からあったと言うから、先の戦争が始まる遥か以前に建てられたことは間違いなかった。


古くからその土地で続いていた信仰は、先の戦争で断絶していたとしても、その土地の人々の価値観を形成するにあたって重要な因子となっているようだ、というのが男が戦後から十数年続けた聞き取り調査を通じて得られた経験則だった。だからシラフナの住民の性質の調査をするにあたって、北にある石塔は調べておきたかった。


四基の石塔いずれも男の膝を少し越えるくらいの高さで、道に沿って古い順に建てられていた。野ざらしのまま随分と放置されていたようで、表面は風化で削られてしまっていた。だが、その直方体を基本とする形状は、それらに人の手が加わっていることをはっきりと示していた。


男は石塔をよく見るためにしゃがんだ。それぞれの石塔の表面には、風化でつぶれてしまっていたが、建立年が、この国で受容された順番で言えば二つ前の暦法で彫り刻まれていた。男はその石塔は予想以上に古いことに驚かされた。屋根もなく野ざらしの状態でおよそ二百年ものあいだ雨風に晒されていて、表面に彫られたものは磨かれてしまいその詳細まではわからなくなってしまっていたが、それでも先の戦争を乗り越えて今日までそこに残っていることは奇跡と言ってもよかった。


石塔には文字が刻まれていたようだが、これも風化でつぶれてしまっていた。だがその文字数や文字の大体の形、そして建立年を複合して考えると、いずれも「庚申供養塔」と刻まれているらしいと男は推測した。男はさらに新しい二基の石塔には「庚申供養塔」に加えて「猿田彦命」と考えられる文字列が彫られていた跡を見つけた。


どこか遠く、北の方から何かの機械の駆動音が伝わってきた。川沿いの静かな道にいた男の耳にもその音は聞こえていた。男はしゃがんで四基の石塔を観察し、持っていたメモ帳にその情報を書きつけていった。北の方から聞こえる音は、だんだんと大きくなっていったが、ある時急に聞こえなくなった。今まで無視してペンを走らせていた男も、気になって北の方を見た。男は音の正体が車かなと思っていたが、そこに車は見当たらなかった。代わりに一人の背広を着た男が、北から歩いて来るのが見えた。


音の正体や、なっている場所などに大した興味が湧かなかった男は、再び石塔の観察を始めた。雨風になめられて曖昧になった文字の線を見極めるのに集中していた男は、背広が隣に立っていることに気づかなかった。


「これは何なんですか」


石塔の観察で周りが見えなくなってしまっている男にしびれを切らした背広はおもむろにそう言った。男は驚いたように、声のした方を向いた。北の方から歩いてきていた背広は一度男を通り越したのか、方角で言えば男の南側に立って、男と同様に石塔を眺めていた。


背広の話す言葉は都会風で、言外に感じられる雰囲気は山賊を始めとする無法者のそれではなかった。その見た目からして、おおよそシラフナへ魚でも買い付けに行くどこかのキャラバンに属するショージクランのオサだろうと思った。


「全部庚申塔でしょうな」


男は背広にそう言った。男は努めて穏やかな声色を出した。背広が男の目にキャラバンの者のように見えただけで、そうである確証はどこにもなく、男は一応背広に対する警戒心を解いていなかった。この状態で背広に襲われたらひとたまりもないな、と男は思っていた。男に格闘技の心得はなく、もし直立した姿勢で襲われたとしても男に勝てる見込みはなかったし、素性が分からない人物に見下ろされているという状態は、男に生物の本能に基づく恐怖を与えていた。


戦後の混乱はある程度収まったとはいえ、人気のない所ではいまだに山賊に襲われる危険性が残っていた。国内各地を調査で移動する中で、男は山賊の危険性を強く認識していた。


再び北の方から機械音が鳴り出した。だんだんと大きくなるその音は、音の発生源が男の方に近づいていることを示していた。もう発生源が男の目に入る範囲にあるだろうと男は思ったが、隣の背広に目を離すことはできなかった。


「コウシントウ、ですか。石でも通信できるんですね」

「その交信ではありませんよ。干支の庚申です」


男は親切に、背広の誤りを正した。誤りを指摘して背広に逆上されるのは怖かったが、それを無視して適当にあしらうのも、また危険だと思っていた。背広は別に逆上するわけでもなく、興味深そうにただうなずいていた。男の目には、背広が単に石塔に興味を持っているだけの者として映り出した。


襲われる心配がなくなったわけではないが、男の心に少し余裕が生まれた。すると、近づいて来る機械の音の方にも意識が向けられるようになった。それは新式の自動車の駆動音のようだと男は思った。仕事柄どちらかと言えば都市よりも田舎をよく訪れる男は、いまだに高価な新式自動車を間近で見た経験に乏しいが、近づいて来る音に車輪の音が含まれていることと、戦中から現在まで市井に広く普及した旧式の簡易樹脂車の荒々しい駆動音とは程遠い静かで滑らかな駆動音からそうだと思った。


男の予想通り、新式自動車が川沿いの道をシラフナ方面に進んでいた。自動車の運転手は、男とその隣に並んで立っている背広を認めると、停車した。助手席に座った背広を着た男が自動車を降りて男の空いている方の隣に立った。


男は新たにもう一人の背広が彼の隣に立ったことに気づいた。去りかけていた恐怖がとてつもない速さで男の心に戻ってきた。一度安心した分だけ、戻ってきた恐怖は男にとって以前よりずっと大きくなったように思えた。


鉻田クロムタヨウジさんですね」


新しい方の背広がそう言った。水中にいるかのようなくぐもった声だった。それは、背広が戦争で北陸に出征していたことを示していた。北陸戦線に出征していた兵士の大半はそこで使われた己九号という名前の毒ガス兵器によって喉を焼かれていた。応急処置としてその後のバージョンアップを無視した設計の無動力発泡声帯を埋め込まれた彼らは、当時よりも生体培養技術が設備面で充実した今でも水を通したくぐもった声で話し続けていた。


「そうです」


鉻田と呼ばれたその男は観念してそう言った。新しい方の背広の後ろに停まる車が男の目に入った。デザインやナンバープレートからそれは公用車のようだった。男は所属が国の機関なのか県や市の機関なのかはっきりと判別はできなかったが、市レベルではまだ簡易樹脂車が使われている中で、新式の自動車であることを考えると、国の官庁に所属しているようだと予測した。だが、男に官庁の役人から名指しで話しかけられる心当たりは見当たらなかった。今は、男はシラフナ町から委託を受けて住民の調査をしていた。町と言っても戦中の混乱で国が瓦解してから地元の有力な漁師らによって作られた自治組織がその前身となって、復活政府が事後に承認した形で作られた町であるため、今の仕事は公的な仕事というよりは町の有力な漁師の一人から個人的に頼まれたような感覚だった。


経済の偉い学者先生の名前を冠したいくつもの波が集まって一つの大波になり、どうにか一塊になっていた大陸をとうとうばらけさせた。大波はその大陸を襲った後、地球を一周して「破壊的全球規模終末戦争」の嚆矢を放っていった。それ以前に二度起こった世界規模の戦争とは違って二項対立構造を取っていなかった先の戦争では、明確な終止符がなかった。ただ全体的に資源の枯渇や士気の低下など諸々の事情が重なって戦争を続けられなくなった十数年前にとりあえずの形で終末戦争の終結を迎えた。


戦中に国が瓦解した後、この国土にはシラフナ町のようないくつもの自治組織ができていった。戦後、復活政府は戦前のようなある程度の中央集権型の国家を目指していた。男はそれぞれの自治組織が円滑に戦前の体勢に戻れるように、そしてそこで円滑な復興が進むように、各地を転々としてその状態を調査していた。


「公安部第七課です」


新しい背広の方がそう言った。男に公安部の厄介になる心当たりはさらになかった。犯罪に手を染めたどころか、犯罪にかかわったこともなかった。


だが男は公安部員に挟まれた状態を知りさらなる恐怖心を抱いた。男は弾圧を想起した。数か月前に発表した復活政府による復興政策に関する報告書で男は末端の市民を一切無視した復活政府の手法を痛烈に批判していた。復活政府は学問や言論の自由の保障を明言しているが、噂では秘密裡に復活政府に反目する人々の活動を妨害しているという話だった。男の周りで復活政府に自由を侵害されたという者を目にすることはなかったが、その噂の存在と男が発表した報告書が、今の状態での男の危険性を示していた。


国民に公表されている情報では公安部は第四課までしか存在しないことになっていた。第七課は聞いたことがなかったが、それが余計に秘密裡に行われている言論統制の現実味を増していた。男には、背広たちがありもしない公安部第七課を騙っているとは思えなかった。今の時代に新式自動車に乗れるのは結構な身分でないといけないからだ。


男は一瞬逃亡も考えた。両側から公安部員に挟まれている形であり、男から見て後方は空いていた。だがここが戦前、住宅地であったことを思い出すと男はあっさりと諦めた。周りに空き家は余るほど存在するが、人が住まなくなってから長い年月が過ぎ、どれも下手に入って無事でいられる確証はなかった。かと言って正直に道路を走ったところで、逃亡が成功するはずはなかった。樹脂車ならまだしも、新式自動車は人が全速力で走るよりもずっと速く走れる。どうせ逃げてもまたすぐに捕まることは明確だった。


「何かご用でしょうか」


男は立ち上がってそう言った。背広の公安部員は二人とも、男が立ち上がるのを黙って見守っていた。男はそんな彼らの様子に違和感を覚えた。もし男を拘束するのが目的なら、立ち上がるのも制止するのではないだろうかと思っていた。だが背広は男の予想に反して、彼が立ち上がるのを傍観していた。


「逮捕が目的ではありません」


背広が発泡声帯を震わせてそう言った。その不自然な声で、不気味さが増してさらに怯えさせてしまうことを恐れて、背広は微笑を浮かべた。公安部の名前を出した時、男が酷く怯えていたのを背広は気づいていた。さらに言えば、背広は男が数か月前に発表した復興政策批判の報告書の存在はおろか、その内容まで把握していた。


背広の微笑を男は曖昧な表情で見つめていた。背広が何を言っているのか理解できないということだろう。


「鉻田さんにご協力を仰ぎたいと思い、お声がけさせていただいた次第です」

「協力というと、何かを証言すればいいのですか」

「我々は犯罪捜査をしているわけではないのです。先生の文化についての豊富な知見で、我々にご助力いただければと思っているのです」


男は背広に「先生」と呼ばれたことに耳ざとく気付いた。それで男は自身に公安部に追われるような咎はないということを確信した。男が警戒心を解いたことは、彼が二人目の背広に声を掛けられてからきつく握りしめていたペンを胸ポケットにしまい込んだ動作を通して、二人の背広にも伝わった。


「わかりました。まずはあなた方の目的と、それに対して私が何をすればいいのかを教えてもらえますか」

「ここではなんですから、詳しくは車の中で」

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