孤独な蝶は、感情を忘れないように。

 燈火さんは、ぐっすりとあのまま寝ていた。

 私がそっと肩を叩くと燈火さんはゆっくり目を覚ました。


「おはようございます。燈火さん、結局立ったまま寝ちゃったんですね」


 私は起きた燈火さんに、そう話しかけた。


「……やってしまった」


 状況を即座に理解した燈火さんは両手で顔を隠し、低い声で呟いた。


「いいですか。誰にも言わないでください。特に月夜には」

「言わないで、と言う割には部屋の襖を開けているのだから嫌でも見えたわ。ここはどこだと思っておる。月の間じゃぞ? 我の部屋なのだぞ?」


 月夜様は燈火さんの後ろからひょこっと出てきた。

 げ、とでも言いたげな顔をした燈火さんは大きなため息をついた。


「いいです。この際水蓮にさえ見られていなければ」

「兄様おはよう。星蘭も。……婚前の女性が寝てる部屋で、しかも襖を開けたまま寝るなんて。兄様にはがっかりだよ」


 元気よく挨拶をした水蓮様は私に手を振ってくれると、燈火さんに呆れたように、ため息をついた。


「星蘭」

「な、何でしょうか……」


 さっきより遥かに低い声で燈火さんは私を呼ぶ。


 私、八つ当たりされたりしないよね。


「気晴らしに街へ出ましょう。この部屋、というかこの二人としばらく会いたくないので」


 燈火さんはとびきりの笑顔で言ったが、これはすっごく怒ってる顔だ。顔には「二人とも地獄にでも落ちろ」と書いてあるから。

 まあ、これは燈火さんが悪いんだけど。


「また屋台街ですか? 昼だとそこまで賑わってませんけど」

「そういえば、星蘭は屋台街以外に行ったことがありませんでしたね。では、桜華国観光として今日は露海港つゆみこうという街に行きましょう」


 露海港とはなんだろう。港、と言ってるくらいだから海の貿易が盛んだったりするのかな。


「露海港とは、船での貿易が盛んな街だ。我もそこで買える魚が大好きでな。よく三人に買ってきてもらう」


 月夜様も露海港についてたくさんの情報をくれた。


 この桜華国は海に囲まれているので、どの街も海に接している。しかし、そんな中で貿易港として発展したのはこの露海港だけなのだという。


 露海港は桜華国の玄関とも言える街。そのため、観光客の他にも商業者なんかも多くいるらしい。

 多くの若者が働きに出ているそうで、活気溢れる街なのだそう。


「露海港の海鮮物、とっても美味しいんだよ。星蘭にも食べて欲しいなぁ」


 水蓮様は優しく笑った。


 私は海鮮物をあまり食べたことがない。ここに来てやっと鮭という魚を一生分食べてはいるが、元の世界では食べてこなかった。

 そんなに美味しいと言ってるのだ。少し、興味を持った。


「私、露海港に行ってみたいです。ぜひ鮭以外の魚を堪能したいです」

「……なんか一言気になりましたけど。まあ、星蘭も興味を持ってくれたようですし行きましょうか」


 燈火さんはそう微笑むと準備をするためか、月夜様から借りた部屋に戻った。


 私は鼓動が高鳴っているのに気づいた。

 露海港って一体どんな所なんだろう。

 そう、私の好奇心がより私の鼓動を速くさせている。


 しかし、私の目の前にいる王族二人は何やら不安そうな顔をして何かを話していた。


「何かありました?」

「いや、そうだな。兄上と行ってもどうせ鮭しか食べられぬと思ってな」

「僕もそうだよ。兄様と何回も露海港へ行ったけど、毎回鮭を食べるんだ。僕が他の魚を食べてと何度言っても……」


 私は本気で悩んでいる二人を見て、つい苦笑いを零した。


 でも確かにせっかく魚が有名な露海港へ行けるのだから、ぜひ鮭以外も食べたい。


 私も二人と一緒に悩んでいると、月夜様が何かを思いついたように瞳を輝かせた。


「そうだ。兄上も一緒に行ったらどうだ?」

「僕が?」

「うむ! 星蘭のために、兄上が美味しいと思った魚を食べさせてやって欲しい」


 月夜様はそう身を乗り出して言う。


 確かにその方が鮭は回避できるかもしれない。でもその状況かなりまずいだろう。

 王族二人とどこの馬の骨かも分からない美人でない女。

 絶対注目されるし、何より絶対、絶対私に鋭い目線が集中するやつだ。

 私は断固拒否することを心に誓った。


「僕は星蘭と行ってみたいな。ああ、変な意味なくて、ただ美味しい物を食べて欲しいだけ。ね、いいかな……?」


 上目遣いでそう聞いてくる水蓮様。また王子様オーラが溢れ出てます。

 私は心が揺らいだ。先程心に誓ったばかりなのに、この程度で私の誓いは揺らいでしまうとは。


「でも、燈火さんが許してくれるか……」

「まあ今の状態の兄上は嫌がるだろうが、どうせ折れるだろうよ。何より星蘭に色々な食べ物を食べて欲しいからな」

「でも私は……!」


 私は注目されるなんて絶対に嫌だ。

 そう言おうとした私の口は月夜様の人差し指によって押さえられた。

 月夜様は少し困ったような顔をして微笑む。


「頑固者だな。でもでもと言い訳ばかりしていても誰も、何も得なぞしない。こういう時、なんと言えば分かるか?」


 その月夜様の言葉に私は首を横に振る。


「ありがとう。ただこれだけを言えばいい。確かに甘えすぎるのは良くないが、甘えずに生きることなんてできない。こうやって燈火兄上も水蓮兄上も、もちろん我もお主のことを大切に想っているのだから。たまには我らに甘えるのだぞ」


 月夜様はそう言うと私の頭をそっと撫でた。


 ああ、この人は。いつも私がずっと欲しいと思っていた言葉をくれる。

 意識して思ってはなかったのに、その言葉を聞くと私はこの言葉が欲しかったんだって、改めて気づく。


 自分より幼いまだ十四歳の子供に慰められるなんて、なんて恥ずかしい話だろう。

 でも、この心がじわぁっと温かくなるこの気持ち。これが何なのかは分からないけれど、それがとても嬉しいことだってここに来てやっと知った。

 この込み上げる気持ちの名前を私はまだ知らない。それでも私はこの気持ちを大切に、忘れないようにそっと胸に手を当てて逃げて行かないよう、しっかり胸に留めた。


 もう、この尊い感情を失わないように。


「月夜様、ありがとうございます。水蓮様、ぜひ三人で一緒に露海港へ行きましょう」

「ありがとう、星蘭! そうと決まれば僕も準備しなきゃね。星蘭が笑顔になれるように露海港を案内するから、期待しててね」


 水蓮様はとびきりの笑顔を見せると、自分の部屋に戻った。


「お土産話を楽しみにしている。あそこは人が多いからはぐれないようにな」


 月夜様はもう一度私の頭をぽんぽん、と撫でると菊さんたちを呼んだ。

 月夜様はこの三人に私の着せ替えをさせるそうだ。

 面倒だな、と思ったけれどあまりに三人の目がギラついているので、三人に任せることにした。


「それにしても露海港に行くのか。あそこは人がわんさかいるからね。気をつけなよ」

「どこよりも潮の匂いが強くてなんだか夏を感じられるんだよね。ちょうど暑いし、夏を感じておいでよ」

「夏が旬の魚もたくさんあるから、楽しんで来なさいね」


 菊さんは髪の毛のセットを、鈴さんは着付けを、琴さんは化粧をそれぞれしてくれている、のだがお喋りが止まらない。

 私はそんな三人に苦笑しながら鏡を見た。今まで着た着物よりずっと豪華だし、髪の毛も化粧もずっと綺麗になっている。


「よし、できた」

「いいじゃないの! 可愛いよ」

「ええ。とっても可愛いわ」


 先程から三人は着飾った私を見て、べた褒めの嵐だ。少し、恥ずかしい。


「別に、街へお魚食べに行くだけだからこんな着飾らなくても……」

「何言ってんのさ。王族と出かけるんだよ。このくらい着飾って当然さ」

「それに元が良いのだからどうせだったら可愛くしたいもの」


 鈴さんと琴さんは私の手を握って訴えるように言う。それに戸惑う私を見て菊さんは大きな口を開けて笑う。


「良いじゃないか。可愛くて、王族の二人に並ぶに相応しくなれるなんて。喜びなよ」

「そう、ですね。ここまでしてくれてありがとうございます」


 私がそう礼を言うと、菊さんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。


「ははっ。礼まで言えるようになったのかい。楽しんでおいでよ」


 私は菊さんのその言葉に頷くと、私は部屋を出た。

 部屋を出た先には、月夜様と水蓮様。それになぜかフードを被っていない燈火さんがいた。

 でも髪の毛は全部紺色だし、瞳も黄色だ。私は初めて見る燈火さんの姿に驚いた。


「わあ……! 可愛いな、星蘭。良く似合っておるぞ!」

「月夜の言う通り、すごく素敵だね」


 月夜様と水蓮様は揃って瞳を輝かせて私を褒めてくれる。


「ありがとうございます。水蓮様も、良くお似合いで。それに、燈火さんも」

「……やはり外に出る時に被っていないと不安です」

「何引きこもりのような台詞を言っているのだ。見た目はバッチリ王族なのだから不安になることなんてないだろう」


 俯いて、縮こまっている燈火さんは自分の髪の色を見てため息をついた。


「私も、この見た目に産まれたかったですね」

「また、そんなこと言って。そんな辛気臭い顔してると星蘭を不安にさせてしまうぞ」


 月夜様がそう言っても燈火さんは下を向いたままだった。


 私は、燈火さんのために何かできないのか。燈火さんが何度も私に手を差し伸べてくれたように。


「私も家族の中で一番美しくなかった。外も中も。でも、あなたは違う。私は少なくともあなたのことを美しいと思っています。この国では見た目で判断されるのかもしれないけど、人は、見た目で判断してはいけないと思ってますから。だから、ええと……」


 私は何とかして燈火さんに自信を持ってもらおうとしたのだが、それができない自分自身の言葉の引き出しの少なさを憎んだ。

 しかし、燈火さんは私の言葉を聞いてか、なぜか微笑んでいた。


「星蘭の言いたいことは伝わりました。ありがとうございます。でも、まさか星蘭に励まされるとは思いませんでした」

「……どういう意味ですか」

「さあ、どうでしょう。せっかく月夜が髪を染めてくれましたし、早く行きましょうか」


 私の言葉が燈火さんを支えてくれたかは分からないけど、燈火さんが笑顔になってくれて良かった。そう、思った。


「鮭おにぎりもいいですが、異国の料理のムニエル、というやつも美味しいんですよ」

「兄様。今日こそは鮭はやめてください。この世の鮭が兄様によってなくなったらどうするんですか」

「水蓮はまた恐ろしい冗談を。では今日は違う鮭料理を探しますね」

「え、いやそういうことじゃなくて」


 私は一切噛み合ってない水蓮様と燈火さんの話を聞いて笑ってしまった。


 だんだんと近づく潮の匂いと賑やかな声に私の足取りは軽くなった。

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