孤独な蝶は、屋台を出す。
私は今、王宮の月の間に来ている。用件は月夜様へ例の物を届けるためだ。
「で、一体何を作って持ってきてくれたのだ?」
月夜様は見るからにワクワクした様子で話しかけた。月夜様は、とても私のいた世界に興味を持っている。
「これがリップクリームという物です」
私はそう言って、月夜様に作ったリップクリームを渡した。リップクリームは手の平サイズの木製ケースにしまわれた男女兼用の物。
この世界はどうやらリップクリーム=女性の物というイメージが固くついているのだという。
そこで私はあえてこの世界に男女兼用のリップクリームという物を作った。私のいた世界でもそういうイメージは大きかったが、保湿用のリップクリームとなると、男性も使っている人は多いのではないかと思う。
月夜様はそのリップクリームを真剣に見つめていた。そしてキャップを開けて匂いを嗅いだり、手につけたりしている。
「リップクリームは男女兼用の物です。ですので、これは化粧でつけるのではありません。寒い冬の時期に唇が乾燥して皮がめくれたり、血が出てしまったりしたことはありませんか?」
「ああ、確かに口紅を塗っていない明け方は、気づいたら唇が乾燥してしまっているな」
「そうです。これはそんな乾燥を防ぐために使うものなのです。もちろん、乾燥に困っているのは女性だけではありません。化粧品ではなくリップクリームなので、男性女性、お年寄りから子供まで幅広い世代に使っていただけるのです」
私の話を聞いていた月夜様は興味深そうに相槌を打ちながら話を聞いてくれた。
いくら異世界の話が好きとはいえ、彼女もこの世界の住人だ。受け入れられないことだって一つや二つあるだろう。果たしてこよリップクリームが受け入れてもらえるのか。私はとても緊張した。
「なるほど。これは売れるな」
私は何か企んでいるかのような表情を見せる月夜様を見て、最近どこかで同じような表情を見たような気がし、少し鳥肌が立った。
そうだ。この表情は彼女の兄、そして私の師匠でもある燈火さんがよくする表情だ。ついこの前も「売れるな」と自分で作った薬を見つめながらそう言っていた。
やっぱり兄妹はどこか似ているところがあるのだな、と感じた。
「我はとても気に入ったぞ。特にこの男女兼用という所。これは今まで桜華国、いやこの世界にすらなかった物だろう! 新しい風を吹かせられるに違いない。今すぐ売ろう。お主の名と共に、な」
「私の名ですか?」
私が首を傾げると、月夜様は満足そうに微笑んだ。
「異世界から来た人間が、この世界に全く新しい物を生み出したのだ。こんな画期的な物を生み出したのにはお主の努力があってこそ。瞬く間にお主は有名になる。皆が注目するのだ。まあ、異世界から来たというのは隠さねばならないがな」
「それは、何だか複雑ですね。私のいた世界ではリップクリームなんてコンビニでも百均でも、どこでも売ってる物だったので、それを作っただけで注目されるなんて。それにしても、やっぱり私が異世界から来たことは隠した方が良いんですか?」
私の言葉に月夜様は深く頷いた。
「異世界から来たというのは大きな事件だ。いつまた訪れるか分からない、貴重な人間だからな。だからこそ世界中の人間がお主に注目する。それは良いことでもあり、悪いことでもある。命が狙われる危険もあるのだから」
私は月夜様のその言葉に衝撃を受けた。言わない方が良いんだろうな、とは薄々感じていたが、まさか命まで狙われるとは思いもしなかった。
私は絶対に言うものかと肝に銘じた。そんな私を見て、月夜様は大きな声で笑った。それと同時に月夜様のつけている簪の鈴がチリン、と鳴った。
「そんなに身構えなくてもよい。お主のことは我が守ろうぞ。まあ、我が守るよりも先に兄上がなんとかしそうだがな。兄上はああ見えて短気だから、そんな輩は有無を言わす前に殺してしまいそうだ」
私は月夜様から出た物騒な言葉に思わず苦笑いしてしまった。何も殺さなくても良いのに、と。それより殺すって、ここにはまだ殺しちゃだめですよ的な法律はないのだうか。
「そうだ、星蘭。店を開くと良い」
「店、ですか?」
「ああ。せっかく勉強したのだ。このリップクリームの他にも商品を作り出し、それを売る。これは儲かるに違いない。それに、良い経験にもなるだろう。店を開くと客と距離が一層近くなる。お主が受け入れられるためにも、そうやって距離を縮めると良いだろう。まあ、店を出すには商品が少ないからな。あと商品を三個くらい作ったら出そう。それまで気長に待っているよ」
月夜様は微笑むと、気合を入れるように力強く立ち上がった。そして、私との距離を縮めた。私の目の前には月夜様の顔がある。
「まずはこのリップクリームを屋台街で売ることからだな」
屋台街。前に燈火さんが言っていた。食べ物飲み物の他に雑貨なんかも売っている街だと。
確かにそこはたくさんの屋台が出ており、大変賑わっていた。
そんなところで名無しの人間が作ったリップクリームなんて物を売っても全く売れないだろう。
この兄妹は売れる売れると言うが、これに関しては私は無理な話だと思う。一体どういうつもりなのだろうか。
「安心しろ。屋台は既に作ってある。場所はおにぎり屋の隣。他に場所がなくて端になってしまったが、あのおにぎり屋は大変人気な屋台だ。流れでお前のリップクリームも見てくれるはずだ」
そんな上手くいくのかと私は疑っていたが、月夜様はこんなにも早く準備をしてくれていたのだ。今から諦めてはいけない。
「そうだと信じます」
「ははっ、そうか。ありがとう。ところでリップクリームは何個作ったのだ?」
「この一個だけです」
私がそう言うと月夜様は額に手を置いて大きなため息をついた。
「完全な盲点だった。さすがに大量生産しているわけがなかったな。売りに出すのは早くても……うーん」
月夜様は唸りながら考えを巡らせていた。
月夜様は一刻も早くこのリップクリームを売りたいのだろう。私はそうでもないのだが。
でも、この人がこんなにもなって売ろうとしてくれているのだ。それが何だか嬉しくて、早くこの世界に広まって欲しいと思う反面、私が本当にこの世界に受け入れられるのか不安にも思えた。
そんな時、私はこの人のために一体何ができるのか。この人たちのために何かをしたいと、そういった感情が芽生えるのに気づいた。
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