孤独な蝶は、リップクリームを作る。

「星蘭、私は先に研究室の方に入ってますから食べ終わったら来てください」

「分かりました。用意を終えたらすぐ行きます」


 ついに始まる。リップクリーム作りが。


 私は冷やし中華を口の中に勢いよく入れた。皿を洗い、干していた布団を中に入れる。


 私は研究所に行く前に、この長い髪を結うことにした。

 私の髪は世間一般的に見て長い方だと思う。

 美容院なんて行ったことがないし、文房具のハサミで整えていたくらい。だから私の髪はだらしのない、無造作に腰まで伸びたボサボサの髪だった。


 これからリップクリーム作りをするのだったら、結んだ方がいいのではないのではないかと思い、机の上に置いていた、少し豪華な紐で髪を結ぶことにした。

 この紐はこの前月夜様に会ったときに、兄が迷惑をかけたお詫び、としてもらった物だった。どうやらヘアゴムはこの世界にはないみたいだ。そのため、髪は紐で結ぶという。


 安物のくしで絡まった髪をとかして、一つに結んだ。気合いを入れるように強く、固く。


 私は研究室へ行き、扉を開けた。相変わらず、薬草の匂いが充満している。


 初めはこの匂いがキツかったが、慣れとは怖いものだ。今ではむしろいい匂いに感じてしまうようになった。


 中央のテーブルにいた燈火さんが私に向かって手招きをする。私な燈火さんの元に向かうと、私の目の前にある材料を見つめた。

 燈火さんといかに簡単に、上質な物を作れるかと話し合いを重ねて選んだ材料だ。


 リップケースというとプラスチックが主流なのだが、今回は木製のケースを使う。この世界にプラスチックがあるにはあるのだけれど、技術がない上、世間に浸透してないそうなのだ。

 個人的に木製の方が温かみがあって好きだ。


 リップクリームにはミツロウを使う。元の世界のリップクリームでもミツロウを使っていた気がする。

 ガラスの耐熱容器にミツロウを入れ、湯煎をする。

 ここでもう一つの材料を容器に入れる。それは、植物オイルだ。幸い、この研究所には植物がたくさん育っているので、植物は選び放題だった。


 燈火さんがオススメしたのはホホバという常緑低木。保湿力が高く、酸化しにくい物なのだという。なのでホホバオイルはリップクリームに最適なんだとか。ホホバオイルは低温圧搾法という方法で抽出する。燈火さんは以前薬でも使ったことがあるそうで、その抽出は手慣れた様子であった。


 そのオイルをミツロウと共に容器に入れて、湯煎して溶かす。二つとも少量しか入れない。思ったより少なくてもできるのを知って私は少し驚いてしまった。

 材料が溶けたら容器の中に流し込む。それを冷蔵庫で冷やして固まらせれば完成だ。


 成功するのだろうか。私は道具を片付けながらリップクリームの様子がとても気になっていた。

 結構な時間待つらしく、私はお茶を飲みながら待つことにした。


 しばらく経った後、燈火さんがお茶を飲んでいた私に近づいた。いつの間にか外は暗くなっている。


「そろそろ固まった頃だと思いますよ」


 私はその言葉を聞いて燈火さんと共に台所へ向かった。どうか成功していますように。そう願いながら冷蔵庫の扉を開けた。リップケースを持ち、持っていた爪楊枝で触ってみた。


「固まっている……!」

「なら、大成功ですね」


 燈火さんはそう言いながらリップクリームを真剣に、まじまじと見つめていた。

 私は効果を確かめるために爪楊枝で少量のリップクリームを取り、指先に移して唇に塗ってみた。少しの量でも潤いを感じられた。本当に成功している。


 燈火さんがあまりにも興味津々なので、私はもう一度爪楊枝でリップクリームを少量取り、それを燈火に渡そうとした。


「燈火さん。付けてみますか? ……燈火さん?」


 私が何度も燈火さんを呼びかけても真剣にリップクリームを見つめて何やらブツブツ言っているので、私は爪楊枝に付いたリップクリームを指先に移して、燈火さんの唇に塗った。


「なっ……」


 燈火さんはやっと我に返ったのか、顔、耳まで真っ赤にして驚いた様子で私を見ていた。

 私はそんな燈火さんを見て、やっと今したことを自覚した。あろうことか男性にとんでもないことをしてしまった。唇に、触れてしまった。


「ご、ごめんなさい。変なことしてしまいました。あ、気にしないでください。本当に、ごめんなさい」

「そんな動揺しないでください。気づかなかった私も悪いですし。……それにしてもこれはいいですね。一回塗っただけでこの保湿力。これは売れます」


 燈火さんはまだ少し顔を赤らめたままガッツポーズをして、微笑んだ。

 私は、このリップクリーム作りが何とか成功して本当によかったと心の底から思った。材料の量など何度も試行錯誤して、やっと完成した。

 これ程の達成感を私は味わったことはないだろう。


「明日にでも月夜様へ見せに行きましょう」

「ええ。そうですね。月夜に文を書いてきます。星蘭はそのリップクリームを自分の部屋にでも持っていってください」


 燈火さんはそう言って部屋を出ていった。私はこのリップクリームを持って自室に戻った。

 相変わらず無機質な部屋だ。窓から見える月を見ながら何か家具でも置いた方がいいかな、なんて思いながらリップクリームと髪紐を机の上に置いた。


 売れるかどうかは全く分からない。その前に、これが売り物になるのかも分からない。


 だけど、月夜様にさえ喜んでくれればそれで十分だ。どうか月夜様が喜んでくれますように、と願いを込めて布団に横たわった。

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