孤独な蝶は、勇気をもらう。

「安心しました。月夜はこのリップクリームを気に入ってくれたのですね」


 突然背後で聞こえた声は燈火さんのものだった。燈火さんは柱に寄りかかり、私たちに手を振っていた。


「兄上。そりゃ気に入るわ。何より星蘭が努力して生み出した物だ。これはとても価値がある」

「でしょう。これは良い稼ぎになりますよ」


 私は二人の会話を聞いて、この兄妹は金の話にしか興味はないのかと思ってしまった。口を開けば稼げる、金になると言う。


「それで兄上。ここには何の用だ?」

「お前がリップクリームの数に困っていると思って。大量に作ってあげましたよ」


 そう言った燈火さんの後ろには大量の木箱があった。燈火さんが一つの木箱を私と月夜様の近くまで持っていき、開けた。そこにはぴっしりと詰められた木製のケースのリップクリームがあった。


 まさかこれを一人で、この短時間で燈火さんは作り上げたのだろうか。

 私が疑いの目で燈火さんを見ると、燈火さんは得意げに微笑んだ。


「何年あの研究所で研究してきたと思っているんですか。このくらい、作り方さえ分かれば作れてしまいます」


 燈火さんはすごい人なんだと改めて実感した。


 特にメモを残していたわけでもない。簡易メモを私自身で作っていたが、燈火さんには渡していない。だとすると、この人は私が作っていた手順を覚えていたのだろうか。


「これで、いつでも売りに行けますね」


 燈火さんがそう言うと、月夜様は頷いた。


「さあ、行こう星蘭! お主の道はここから始まるのだからな!」


 月夜様は私の手を引いて走り出した。月夜様は部屋から出る直前に立ち止まると、燈火さんの方を向いた。


「では、兄上。これを全て持って屋台に集合だ。星蘭と待っておるぞ!」


 月夜様は一つだけ木箱を持ち、私の手を握ったまま、また勢いよく走り出した。

 月夜様があまりにも早く走るから、すぐに私がこれからリップクリームを売る屋台に着いてしまった。


 まだ昼間の屋台街はあまり人がおらず、騒がしさはまだなかった。聞こえるとしたら子供の楽しそうな声くらい。

 ここから見える王宮は立派だな、とか思いながら辺りを見回していると、後ろから声をかけられた。


 振り返ってるとそこにいたのは、私に見覚えのある人だった。


「あなたは、おにぎり屋の……?」


 私がそう尋ねると、おばあさんはゆっくり微笑んだ。


「隣に屋台を出すんだってねえ。何を売るのかい?」

「リップクリームです。えっと、口紅ってあるでしょう? それの色のついていない、男女兼用バージョンの物です」


 私がリップクリームについて説明すると、おばあさんは目を丸くさせて驚いた。


「まあ、色がついていないのにも驚いたけど、男女兼用なんてねえ。口紅と言えば女の物というイメージが強いから、少し驚いたわ」

「ですよね……。でも、唇の乾燥に悩むのは若い女性だけではないはずなんです。老若男女関係ない悩みではないかと思ったんです。だから、師匠と一緒にですけど作ってみました」

「あなたが作ったの! まあ、すごいわねえ。確かに私の旦那も寒くなると唇から血が出たってよく言うのよ。きっとたくさん売れるわ。あなたってすごい子だったのね」


 あまりにもおばあさんが感心して褒めるから、私は何だかくすぐったくなってきた。


「私ね、あなたのこと知ってるのよ」


 私は驚いて、微笑むおばあさんを見た。

 なぜこの人は私のことを知っているのだろうか。あの日は燈火さんがおにぎりを買ったから、私は会っていないのに。


「燈火様がおにぎりを買いに来たとき、珍しく梅おにぎりを買っていったからね。どうしたのか聞いてみたのよ。そしたらあなたの話をし始めたから、気になってたのよ」


 燈火さん、おばあさんに私の話してたんだ……。


 そう思うと同時に少し疑問に思ったことがあった。


「珍しく梅おにぎりを買ったって、どういうことですか?」

「おや、聞いていなかったのかい?あの方は鮭は好きなんだけど、梅だけは無理でね。私が作る梅はどうも酸っぱすぎるみたいで。これでもうちの看板商品なんだけれど」


 そう困ったような顔をするおばあさんを見て、私はつい笑ってしまった。


 何も苦手なものはないと思っていたのに、まさか酸っぱい梅が苦手なんて。何がおかしいのか分からないのに、私の笑いは止まらなかった。そんな私を見て、おばあさんも上品に笑う。


「燈火様にこんな可愛らしいお弟子さんができてよかったわ。あの方はいつも一人で何だか悲しそうだったのに、あの日はどこか楽しそうだったからね。安心したわ」


 おばあさんはそう微笑むと、私の背中を優しく押した。


「私はあなたの商売を応援するわ。私の屋台に来た客にも教えておく。頑張るのよ」


 私はその言葉に励まされて頷いた。少し後ろ向きだったけれど、頑張れそうだ。


「そうだわ。私と旦那用にリップクリームを売ってもらえるかしら?」

「喜んで」


 私は月夜様が持ってきた木箱から二つリップクリームを取り出しておばあさんに渡した。


「いくらするの?」


 このリップクリーム一つの値段は三百五十円だ。でも、私に勇気をくれた優しいおばあさんからお金はもらえない。そう思って私は首を横に振った。


「お金はいりません」


 だが、おばあさんも私のその言葉に首を横に振った。


「だめよ。私は客としてあなたのリップクリームを買うのだから。さあ、おいくらなの?」

「……二つで七百円になります」


 私がそう言うとおばあさんは満足そうに微笑み、私にちょうど七百円支払った。


 この国は日本と同じように円単位だ。だが、硬貨の柄などが違う。五円玉と五百円玉がなく、一円玉、十円玉、百円玉の三つだ。そして、千円札と一万円札の二つの紙幣。


 私はおばあさんからお金を受け取ると深く頭を下げた。


「ありがとうございました。おばあさん」

「おばあさんだなんて。私の名前は梨伊りいよ。旦那は獅月しづきね」

「わ、私は星蘭です! 改めてよろしくお願いします、梨伊さん」

 梨伊さんは頷き、おにぎりの準備をしに行くと、自分の屋台に戻っていった。


 それと同時に燈火さんが荷台に入れたたくさんの木箱を運びながら、こちらにやって来た。


「すみません、燈火さん。一人で運ばせてしまって」

「良いんですよ。月夜は許しませんが、星蘭は許しますね。……おや、星蘭。何か良いことでもありましたか?」


 師匠には何でもお見通しなのか、と私は思わず笑ってしまった。


 確かに良いことがあった。私が前を向くための、これから頑張っていくための大事な話を聞けた。


「燈火さん。私、精一杯頑張ります」


 燈火さんは少し驚いたようだったが、すぐに微笑んだ。


「変わりましたね、星蘭。なら、そんな弟子を師匠として精一杯、応援させて頂きます。思う存分、頑張りなさい」


 そんな燈火さんの優しい励ましに私は大きく頷いた。


 ここはまだスタート地点だ。やっと始まったばかり。

 だけど、ここで負けたりなんてしない。絶対に諦めない。

 私は、私自身で自分の未来を変えるのだ。

 私の、星蘭の物語は、私だけの物なのだから。


 さあ、夜が始まる。

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