孤独な蝶は、何も知らない。
「よく勉強しますね。そう長いこと薬のことについて学び続けて、飽きてきませんか?」
燈火さんは本と睨み合いが一日中続いている私を見て、淹れたてのお茶を差し入れてくれた。
「私はただでさえ頭が悪いので、薬を作るなんて到底不可能な話なんです。だから飽きる、というよりも飽きる余地もないと言うか、何と言うか……」
いくら図書館で勉強していたとはいえ、現役の高校生達と比べてはいけないだろう。私は毎日ずっとあの五教科を勉強していたわけではない。好きな本を読んだり、手芸の本を読んだり。どちらかと言えばそんな時間が大半を占めていた気がする。
だから、人一倍勉強するくらいの勢いで勉強しなければ薬なんて本当に作れやしない。
というか薬なんて、素人が急に作ってもいい物なのだろうか。
もっと修行を積んで、国に認められて、という順序を踏まなければならないのではないのだろうか。ちょっと安全面的にも心配だ。
「例えば、この家に君のいた世界へ戻れる方法が知れる本があると言えば?」
私がそう考え事をしていると、燈火さんは微笑みながらそんなことを聞いてきた。
だが、私の心の答えは決まっていた。そんな本があっても読まない。多分
だから私は少し俯きながら口を開いた。だって、きっとこれは胸を張って答えられるものではないから。
「そうですね。本当にあったとしても私が、これから先読むことはないでしょう」
私のその答えを聞いて燈火さんは一瞬驚いたように見えた。だが、すぐにまた微笑んで「さすが星蘭ですね」と言い、熱いお茶を一口飲んだ。
もし、この世界へ来てしまったのが私でなければ。早く元の世界に帰りたい。早く帰してくれ。家族に会いたい。そう口うるさく言ったのだろう。そして、帰るためにありとあらゆる手段を使って元の世界へ帰ろうとする。
だけど残念ながら異世界であるこの桜華国に来てしまったのは感情も捨てた何の特技もない、美女でもない女。早く帰りたいとも思ったことがないし、だからと言ってこの世界にずっといたいとも思っていない。
私自身、自分でどうしたいかも分かってない。自分でも、なんて面倒くさい人間なのだろうかと思う。
「それより、星蘭は何を作るつもりなのですか?この前、この国にはどんな物があるのかと聞かれましたが」
「実はありそうでなかった、これを作ろうと思ってるんです」
私は燈火さんに、作ろうとしていた物の材料やら何やらを書いたメモ用紙を差し出した。
「りっぷくりーむ、ですか?」
「ええ。口紅はあったんですけど、これがないみたいで。ちょっと意外だったんですけどね」
燈火さんは私のメモ用紙をずっと見ていた。興味深かったのだろうか。私の話をまるで聞いていない様子で真剣だった。
「へえ。男女共に使える物なんですか。唇に塗る、というと女性のイメージが強いのですが……。これはこの国に打撃を与えられますね」
燈火さんの口はとびきりの笑顔を向けていた。そして興味津々な様子で私に色んな質問をしてくる。
私は何度も聞かれる内に少し面倒になってきたのだが、これが実はとても助けになっていたことに私は少し後に気づいた。
燈火さんは私に成分、作り方、形状、効果等の質問をした。そういえばそれは調べてなかった、間違えて覚えてしまっていたなどのいくつかの大事なことを調べる良い機会になり、一人で作業しているよりずっと捗った。
「では、まとめますね。無色で棒状。唇の乾燥を防ぎ、潤いを与える。これは、世間に知られれば飛ぶように売れますよ」
後は肝心の作り方だ。この世界にリップクリームがない。それに棒状の口紅もない。それだとリップクリームの作り方も棒状にする方法も分からないままだ。
せっかく良い物を考えられたと思ったのだけれど、やっぱりない物を作るというのはとても難しい。せめて私が理系に特化していればよかったのだけれど。
そう悩んでいたときだった。燈火さんが立ち上がり、部屋を出ていった。私はいきなりどこへ行ってしまったのかと燈火さんが出ていった扉を見つめていた。しばらくして燈火さんが戻ってくると、その手には一冊の薄い本があった。
「先程星蘭は元の世界へ戻る方法が知れる本は読まないと言いましたね。では、そのリップクリームなる物を作る方法が知れる本があるとしたら、どうします?」
燈火さんは笑顔でそう言ったが、私は燈火さんの手に持つ本を見て言葉を失った。リップクリームを作る方法が書いてある本がある。この国にはリップクリームがないんじゃないのか。なぜ、そんな本がここに?
私は頭の中が混乱した。だが、理由なんて今はどうだっていい。作り方が分かれば、リップクリームを作れるのだから。
「ぜひ、読ませてください」
燈火さんは私の答えに頷き、その本を私に手渡した。その本には、口紅の作り方が書いてあるらしい。
「この本の最後の方に、恐らくリップクリームの先駆けとなるような物の作り方が書いてあります。これを固まらせれば棒状の物ができるかと思いますので、たくさん実験を積んで完成させましょう」
燈火さんは身を乗り出してそう言った。私は燈火さんの勢いにつられて頷いた。
「そうと決まれば、まずはご飯を食べましょう」
「へ?」
私はてっきり「実験開始」とでも言うものだと思っていたから、変な声を出して驚いてしまった。
「星蘭、君はほぼ一日飲み物しか口にしていないでしょう。何か食べないといけませんよ」
これはまさか。
「楽しみにしててください。ご飯を炊いて味噌汁を作って、新鮮な美味しい鮭を焼きますから」
来た。またあのフルコンボだ。さすがに勘弁して欲しい。もう無理だ。あれを見たら絶対鮭恐怖症になってしまいそう。鮭は好きだったのに。
「冷蔵庫には何があるんですか?」
「鮭と、あと……あ、そうだ、豆腐がありますよ」
怖い。この研究所にある冷蔵庫はそこそこ大きかったはずだ。他人の持ち物だから中身を見たことはなかったが、まさかそこまで鮭に狂っていたとは。あんな大きい冷蔵庫に鮭と豆腐だけって何だかもったいない気がする。
「だったらどこか食料調達にお店へ……」
「今何時だと思ってるのですか。もう日が変わった夜中です。店はもうどこも閉まっていますよ」
私は絶望した。散々絶望は味わってきたが、これまで体感したことがないくらいの絶望だ。あのフルコンボを食べなくてはいけないなんて。
考えろ、私。あれを回避できる何かがきっとあるはず。しかし、材料がないことにはアレンジもしにくい。そうなればもう、あれしか逃げ道はない。
「そうだ。炊き込みご飯なんてのはどうですか?」
炊き込みご飯。この国には炊飯器がなく、釜炊きだ。だから炊き込みご飯を作るのは難しいと思うが、あのフルコンボを逃れられると思えば容易いことだ。醤油くらい、あるはずだし。
「炊き込みご飯ですか。そういえば何年も食べてませんね」
「鮭と醤油とお米を使います。味噌汁は、今まで通りの物で作ります。炊き込みご飯は私に任せてくれますか?」
燈火さんは何かをすごく迷っていたが、渋々頷いて私の肩に手を置いた。
「鮭を美味しく食べれるようにしてくださいね」
私は呆れたように頷いた。この人はどこまでも鮭に狂ってる。こんな鮭狂人を私は見たことがない。
私は台所に初めて立った。台所はとても綺麗だ。まあ、鮭と味噌汁しか作ってないのだから綺麗なのだろう。
この世界は冷蔵庫はあるのに、なぜか炊飯器がない。一体なぜ。
私は釜に二人分の米を入れる。その中に醤油を入れ、ぶつ切りにした鮭を入れる。準備が整ったら蓋を閉じて、炊き上がるのを待つ。
「鮭と炊き込みご飯の香ばしい匂いがしますね。とても食欲をそそります」
隣で味噌汁を作っていた燈火さんも釜から漂う匂いに引き寄せられて釜の方へやってきた。
「そろそろですかね。私も久しぶりにこんなにご飯が食べたいと思いました」
「それはどういう意味か気になりますが、追究しないでおきましょう」
燈火さんは少し悲しそうな顔をすると、味噌汁を作っている鍋の方へ戻った。
「……うん。もういいかな」
蓋を開けると湯気と共に炊き込みご飯のあの匂いが私の食欲をそそって仕方がない。鮭はふっくらと、お米も醤油といい具合に絡んでいる。とても美味しそうだ。
ああ、こんな温かなご飯を目の前にして、それを食べれるなんて。どれだけ幸福なことだろう。
私はご飯を茶碗によそい、食卓へ運んだ。ちょうど燈火さんも味噌汁を食卓に置き、どちらの料理も温かいまま食べられることができた。
「いただきます」
二人で手を合わせて箸を持ち、ご飯をその口に運ぶ。
美味しい。これは最高傑作だ。あまり料理を作る機会もなかったから少し不安だったけれど、まさかここまで美味しくできるとは。自分でも少し感動した。温かいのがまたこのご飯を美味しくさせてる気がする。
それに、鮭が嫌いになる前でよかったと心の底から思う。
「とても、美味しいです。これは星蘭に料理担当を任せた方がいいかもしれませんね」
燈火さんもそう言いながらご飯を勢いよく口へ運んだ。気に入ってくれたみたいで何よりだ。
何だかいつもの味噌汁も今日は特段美味しく感じられる。料理とは不思議なものだ。
「星蘭、そんな顔をして笑えるのですね」
燈火さんは驚いたように言った。
私は、笑っていたのか。自分のことであるのに全く分からなかった。
だが、今は自分が笑ったかどうかのことなんてどうでもよかった。フードを被り、あまり見えない燈火さんの目と、私の目が合ったのだ。綺麗な白色をしている。とても綺麗な目だ。私の不格好な目とは大違い。
なぜ、そんな綺麗な顔をしながらフードを被り続けるのだろうか。
「燈火さんはなぜ、フードをいつも被っているのですか?そんな綺麗な顔をしているのに。目も、ほらとても綺麗な白色で……」
私がそう褒めると急に燈火さんは立ち上がり、持っていた箸を乱雑に投げた。そして机を叩き、机はドン、と大きな音を立てた。
「見るな。何も、お前には何も分からないというのに……」
「と、燈火さん……?」
いつもの燈火さんの口調とは打って変わって荒々しく、別人のように低い声でそう言った。
私は何か彼を怒らせることを言ってしまったのだろうか。
分からない。褒めただけ。私は、褒めただけだから。だから、お願い、怒らないで。やめて、お願いだから。
「……すみません、少し取り乱してしまいました。ご飯、美味しかったです。先に失礼します」
早口でそう言うと燈火さんは部屋を急いで出ていってしまった。燈火さんのその背中が何だか悲しそうで、私はその背中を黙って見ていることしかできなかった。
きっと燈火さんは私のことを何も知らない。でも、私だって燈火さんのことを何も知らない。
同じ屋根の下で暮らしているのに、私達は赤の他人のようだ。そういえば私達はどちらも互いのことを知ろうとしなかった。
さっき燈火さんから感じた悲しい気持ちは、一体何なのだろうか。
私は馬鹿だ。自分の気持ちも燈火さんの気持ちも何もかも分からない。だから燈火さんに何も言えない。このモヤモヤの正体は一体。
だけど、しっかりと意志を持った気持ちが一つだけ、私の胸の中にあった。
人と関わるのは、やはりいいものではない。いくら私を見てくれた燈火さんであっても、月夜様も、あの三人も。きっと信じるに値しないんだ。他人を信じて、また自分を傷つけるだけだった。
自分だけの殻に篭っている方がずっとずっとよかった。こうやってまた自分を傷つけるくらいなら一人でいた方がいいのに。
そうやって、私はまた逃げるのかと自分でも惨めに思いながらも、すっかり冷たくなってしまった味噌汁を
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