空へと上る階段

霧のような雨の中、白い階段を上る。まだ、夜は明けない。月の光が見えない夜。どこまでも続く闇の中で、白い階段を辿って進む。雨粒は、アリシアの体を通りぬけて、下へと落ちていく。体が、水と同じ冷たさになる。薄灰色の雲の中、上を目指して歩く。雲を抜ければ、月と星が輝く夜空が見えた。白い階段は、まだ続いている。雲の上には、濃い霧がかかっていた。先の見えない霧の向こうには、神が治める死者の国があるという。白い階段は、その霧の中まで、続いている。けれど、そこに行く必要はない。頭上にも、星は見えるのだから。アリシアは手を伸ばして、星に触れた。けれど、その手は星をすり抜けてしまう。アリシアは、青色の光の粒子を漂わせた。


『Wse-gfnns,ba-kre.Sen-bhle-shtkme【水の檻、青い籠。星を留める宝物庫】』


青い光が星を囲む。その光の中に、水が幕のように下りていく。やがて、水の中に星が輝く、丸い塊が出来上がった。アリシアは、安堵で大きく息を吐いた。手を伸ばして、その塊を取ろうとする。けれど、アリシアの手はその塊をすり抜けた。緑色の光の粒子を持って、呪文を紡ぐ。


『Dee-hn-ldr-bue【この手には革の袋】』


光の粒子が広がって、消える。代わりに、アリシアの手元には、革袋が残った。その袋を、浮いている水の塊に被せる。そして袋の口を閉じて、引き寄せる。この袋の中にあるものは、『星を閉じ込めた水』だ。革袋を落とさないように、胸元のリボンに袋の紐を結ぶ。後は、これを持って、帰るだけでいい。アリシアが、そう思った時。


『あら。珍しいわね、お客様なんて』


霧の中から、女性の声が聞こえた。そうして、1人の女の人が、白い階段を下りてくる。階段の先は、死者の世界だ。彼女も、既に死した者なのだろう。


『あなたも、こちら側の人? 歓迎するわ。ここはとても楽しいところ、とっても素敵なところだから。少し戸惑うかもしれないけれど、大丈夫。ここまで来られたあなたなら、きっと皆、歓迎してくれるわ』


そう言われて、アリシアは慌てて首を振る。


『いえ、私は……妹のために、星を取りにきただけで』


アリシアの言葉を聞いた女性は、少し考えてから、口を開いた。


『そうなの? 新しい人かと思ったのに、残念だわ。でも、ここに来たのなら、名を名乗らずに帰ることは許されないの。ねえ、あなた。お名前は?』


『私は、アリシア。アリシア・エーレンフェストと申します』


『アリシアね。素敵なお名前だわ。それに、そうね。誰かが、あなたのことを話していたような気がするの。私のお友達、そう、ディーが……。ねえ。あなたは、ディアナという名前を、聞いたことがあるかしら?』


女性の口から出た名前。聞き覚えがある。胸がざわめく。音になっていないはずの声が、震えているような気がした。


『ディアナ・マクシミリアンであれば、確かに、私の母の名ですが……。その方の家名は、マクシミリアンというのでしょうか』


女性は、困ったような笑顔を見せた。


『家名なんて知らないわ。こちらでは、何の意味もないもの。でもね、ディーがずっと娘のことを気にしているの。ここがどんなに楽しくとも、子供に何も伝えられなかったことは、気になってしまうのよね。私も母ですもの、ディーの気持ちは分かるわ。ねえ、あなた。少しだけ、ここで待っていてくれない? 今、私と話しているように。ディーとも、話してみてほしいの。大丈夫。話をするだけだから、怖いことは何もないわ』


アリシアは、少しの間、女性と見つめ合った。女性の眼差しは真剣で、嘘をついているような様子はない。この天上の国に招かれるのは、罪のない者のみだ。死者であるというだけで、どうしても警戒はしてしまうけれど。この女性も、悪意を持っているわけではないだろう。そう思って、無言で頷く。アリシアが頷いたのを見て、女性は階段を駆け上がっていった。永遠のようにも、ほんの少しだったようにも感じられる時間が過ぎて。彼女が戻ってくる。その隣に並んでいる女性を見て、アリシアは息が詰まるかと思った。幼い頃に亡くした、実の母。肖像画でしか見たことのない姿が、そこにあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る