聖女の試練(中編)
王妃の姿が見えなくなって、ラース王子はようやく泣きやんだ。聖女の姿は、段々と大きくなってきている。
「なんだ、あれは……?」
まだ涙声の王子が、そう呟いた。遠目からは分からなかったが、聖女だと思った影には、顔が無かった。どこまでも真っ黒な、ただの影。王子にとっては、それは見慣れない化け物にしか見えないだろう。けれど、アリシアにとっては別だ。立ち止まって、影を見上げる。その姿は、居なくなった妹が、体を伸ばしているように見えた。足も枯れ木のように細く、夜の闇よりも暗い色をしている。アリシアは、ラース王子と繋いだ手を、自分から離した。王子の視線を感じるが、そちらを見る余裕はない。
『Mie shetr』
影が、音を発した。それを声として捉えるのは、きっとアリシアだけだろう。その意味は分からないが、呼びかけられていることだけは、分かる。大切な妹。ただ1人の家族。道の中央に佇む影の細い手が、アリシアに向けて伸ばされる。アリシアは1歩、影に近付いた。
「ま、待て……!」
ラース王子が、アリシアの前に立つ。影を背にして。
「俺は、噂話で聞いたことしかない。だが、これは、違う。きっと、違うのだ。お前の、その……」
そこで、王子は言葉を切った。アリシアは、黙って王子を見ていた。
「姿、そう、姿だ。姿が少し変わったという、妹ではない。俺の母と同じ、幻だ。手を、取ってはならない」
言葉を選んで、必死に伝えようとする。アリシアは、その姿を見て、自然と笑顔になっていた。まだ幼いが、彼はきっと良い王になる。
「ええ。私は、分かっておりますよ」
そう言ったアリシアを見て、彼は目を丸くした。彼の後ろの影が、揺れる。妹は、アリシアに向けて呼びかけたことはない。アリシアを助けるために魔術を使ったときのことを除けば、その声を聞いたのは、悪魔を呼んだあの日だけだ。だから、ここでこんな風に呼びかけてくる存在が、妹であるはずはない。分かっていても、その手を拒絶するのが怖いなんて。本当に、どうかと思うけれど。アリシアは震えを抑えて、影の横をすり抜けた。
『Wrm it e die Shetr? Whn ght d? bte. Beb bi mr.』
嘆いているような声。
(そうなっても、仕方がないのに)
それは、裏切りではない。妹はただ、素直で純粋な子供だっただけなのだから。勝手に期待して、勝手に失望するような。そんな人間には、絶対になりたくなかったから。アリシアは、痛みも苦しみも、抑えこんで笑った。そうして、深く息を吸って。あと数歩の距離まで近づいた老婆に、目を向ける。ラース王子と共に、その前に立って。アリシアは、聖女の言葉を待った。
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