聖女の試練(前編)

陽炎のように、聖女の姿が揺らめく。道の両脇にあるのは、赤い花。そのはずだ。熱を感じることもない。それなのに、炎に囲まれているような気分になる。どれほど歩いても、聖女との距離が縮まらない。そのことに、ラース王子は焦っているようだった。アリシアも、王子とは別の不安を抱いている。並んで歩く、その足下。王子の影が伸びている、その横にあるはずのもの。アリシアの影が、ない。妹がいるはずの、影が見えない。聖女は、妹がそこにいることに、気付いていた。きっとこれも、試練の内だ。アリシアが耐えきれば、妹は無事に帰ってくる。そう考えることで、心を落ち着けようとする。ラース王子は、アリシアだけ影がないことなど気にも止めず、前に進む。影がないことに気付かれれば、それを切っ掛けとして、妹が影の中にいることも看破されてしまうかもしれない。それだけは、避けねばならないことだったから。ラース王子が、アリシアの変化に気付かないのであれば。アリシアは出来るだけ、いつも通りであるように振る舞わねばならない。いつまでも足下を気にして、俯くわけにはいかないのだ。そう思って、顔を上げる。永遠に続く、真っ赤な絨毯にも見える、花畑。ラース王子が足を止める。アリシアと王子が向かう先。その道の右側に、女性が立っている。アリシアも見覚えがある、その姿。とうの昔に亡くなられたはずの、王妃だった。彼女は微笑んで、手招きしている。


「母上……」


ラース王子が呟いて、そちらを見る。たとえ幻影であったとしても、実の母と会えて、嬉しくないわけがない。1歩、また1歩と、ラース王子が王妃の元へと向かう。


「母上! お会いしたかった……! もう1度と、望まなかった日はありません!」


王子の声。その言葉が終わる前に。繋いでいた手を、アリシアは躊躇なく離した。そうすると告げたのだから、当たり前だ。彼が、まだ母が恋しい年頃の子供でも、試練に挑む王族だというのなら。制止するということは、試練の邪魔をするということになるのだから。この道の幅は狭い。アリシアが手を離したことで、王子は容易く、道の右端まで行ってしまう。王妃の姿は、花畑の中。表情を変えず、こちらを見ている。王子が片足を踏み出しかけて、止まる。道を逸れてはならないことは、覚えていたらしい。王妃がもう1度、手招きする。アリシアは、道の向こうに佇む聖女に、目を向けた。ラース王子は逡巡し、立ち止まっている。今ならば。王子を置いて、先に進むことも可能だろう。1度距離が離れれば、子供の足では追いつけない。置いて進むか、決断が出るまで待つか。アリシアもまた、試されているのだろう。過去にも、何度かあったことだ。玉座にしがみつく王が、次代の王を出し抜こうと、聖女の試練に頼る。試練を乗り越えるのは常に、次代の王だった。それこそが、聖女の試練の真価だと。人々は、口を揃えて言う。これは、王子への試練に見えて、その実はアリシアへの試練でもあると。気付いたからこそ、アリシアは、待つことを選んだ。ラース王子へと、視線を戻す。母が恋しいのだろう、その目には涙が浮かんでいる。けれど、前には進んでいない。ラース王子が決断するまで、この場を動くことは出来ない。そんな状況でも、アリシアに焦りはない。幼い王子。周囲から、侮られている子供。自らの手で、評価を変えようとする、その姿。それが、幼い頃の自分と重なって見える。ラース王子が、口を開く。


「アリシア・エーレンフェスト」


「……はい。私であれば、ここに」


まさか、本当に声が返ってくるとは思わなかったのだろう。王子は、目を見開いた。


「手を、繫いで。俺を、連れていってくれ。頼む」


それは王子の、切なる願いだったのだろう。その選択を、聖女がどう判断するかは分からない。けれどアリシアは、構わなかった。王子の手をとって、引きずるように前に進む。王子の足には、力が入っていない。アリシアは王子を見ずに、手を繋いだままで、前へと足を動かす。王子が泣いているような声が聞こえたが、立ち止まらない。きっと、それこそが。王子が、アリシアに望んでいることなのだから。

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