彼女の行動

窓を開ける。暖かな風が、アリシアの頬を撫でる。


「Wn-srce-wiegbn.Fre,Fre,wi-asad.Wn-wiegbn-srce,uscee,shah.Ae-mnce,wn-srce-or-luce【風は言葉を渡す。遠く、遠く、遥かな彼方へと。風が渡す言葉は、不確かで、弱々しい。それでも人は、風の言葉に耳を傾ける】」


紡いだ呪文は、すぐに効果が出るものではない。数日後、呪文と共に風に乗せた言葉は、噂となって伝わるだろう。隣国が、戦の準備をしているらしいと。そう伝われば、民も貴族たちも焦るはずだ。今、この国には王がいない。玉座が空席では、戦など出来るはずがない。実際には、戦は起こらない。だが戦というものは、起こるかもしれないという杞憂だけで、1国を動かすものだ。アリシアはただ、その日を待てばいい。噂が人の口から伝わって、王城に届く日を。そう思って、窓を閉める。その口元には、確かに笑みが浮かんでいた。


────


風がどこからか、その言葉を運んでくる。


『隣国が、戦の準備をしているらしい』


それは既に、アリシアの言葉ではない。風に乗って届いた、何の根拠もない噂。それ故に否定することは簡単だが、完全に否定しきることは難しい。王城でも、議論が紛糾する。グヴィナー側は、第2王子の即位を阻もうと、噂の真偽が不明であることをあげつらっている。けれど、大勢は第2王子側に傾きはじめた。声は、次第に大きくなっていく。もしも、噂が真実であれば。王がいない状況では、取り返しのつかないことが起きてしまう。そんな不安を抱くのは、民よりも貴族。この国で、何不自由なく暮らしている者たちだろう。何故ならば、彼らは今の暮らしを、失いたくはないのだから。グヴィナー側の支持者たちも、それは同じだ。この国は、ラース王子が王になったとしても、きっと完全には変わらないだろう。今、アリシアを支持している者たちも、基本的には変わらない。より多くの富、より強い権を求めて、こちら側に付いている。故にこそ、その足場となる国自体が揺らぐことには、強い危機感を抱くはずだ。ラース王子が、アリシアの隣の席から、こちらを見てきているような。そんな気がした。だが、アリシアがそちらを見ることはなかった。議論が続けられる。ラース王子に、王位を継がせる。ただし、まだ幼い彼には、補佐が必要だ。その補佐となる者は、アリシア・エーレンフェストであると。そこまでは、予想できた進行だ。その中で、ラース王子は1度も、口を開かなかった。子供に見えても、彼は間違いなく王族だ。侮られているから何も言わなかったのではなく、彼の中で問題がないと判断したから、口を挟まなかったのだろう。そこまで信頼されているとは、思わなかった。父には認められなかったというのに、赤の他人であるラース王子には、認められている。いや、他人だからこそ、なのだろう。父は、アリシアのことを嫌っていた。だから、アリシアは正当に評価されてこなかった。そんな、当たり前のことに。今さら傷付くなんて、馬鹿げている。そうは思えど、止められない。子供の頃のアリシアが抱いた、家族への情。それは、今でもアリシアの内に残っている。机の上に乗ったカップに、お茶が満たされている。そのカップの持ち手を持つ、自分の手。その手と机の間、照明とは反対の方向に、影ができている。影の中には、妹がいる。ゆっくりと、息を吐く。不思議なものだ。血が繋がらないはずの妹だけが、唯一、家族として側にいてくれるかもしれない存在だなんて。いつから、そうなっていたのだろうか。妹はいつまで、側にいてくれるのだろうか。不安と期待、切望と寂しさ、それら全てを、お茶と共に飲み下す。全ては、アリシアの思った通りに進んでいる。心配なことはあっても、きっと何もかも、上手くいくはずだ。そう思って、無理やりに自分を納得させる。そうしてアリシアは、即位式の日取りを決めはじめた貴族たちを見ながら、手元のお茶をもう1度、口に運んだ。

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