ウェルシュの森(前編)
水の月が終わる頃。アリシアはいつものように、馬車から下りて、大通りを歩いていた。通りに面した革細工の店に、丈夫な革袋があるのを見かけて買う。ウェルシュの森に向かうなら、水を入れる革袋は必要不可欠だ。それも、質の良い皮を使っていて、作りの良い袋であれば尚更。革袋を2袋買って、アリシアは再び歩き出す。青い空を飛ぶ、赤い羽の小鳥が、鳴いているのが聞こえた。大通りの喧噪の中、アリシアは1人、教会へと向かう。その道中。誰かに、見られていた気がした。アリシアは立ち止まり、首にかけていたネックレスを外して、右手に巻く。そうして、また、歩き始めた。まだ瓦礫が散乱したままの教会は、見通しが悪くなっている。教会の奥、祈りの場。普段は少なくはあるが人の居る場所に、しかし今日は誰も居ない。アリシアは目を細めて、ネックレスに付いている宝石を、右手で握りこんだ。その手を胸の前まで持ってきて、左手で右手を包むようにして手を組む。そして、祈りを捧げるために、目を閉じる。背後に、誰かが立った気配を感じる。アリシアは、目を開けなかった。
「護衛役と離れるお前が悪い」
その言葉と共に、首筋に、金属の冷たさを感じた。けれど、アリシアは動かなかった。代わりに、口を開いて、呪文を紡ぐ。
「Ln-lct,hsefltn-luhe.wi-fre-bs,bign-wie.【地の光は、眩しく輝く。遙か遠くまで、届くように】」
言葉を音として、崩れた教会に響かせる。呪文と共に、アリシアの体を緑色の光が包む。暗殺者なら暗殺者らしく、実力を誇示するより先に、指示を実行すればよかったのだ。それを怠り、アリシアに対処のための時間を与えた。背後の気配が飛び退く。
「どういうことだ! 聞いていないぞ、落ちこぼれじゃないのか!」
背後から聞こえる声は、明らかに焦っている。その様子からして、魔術の知識は無いのだろう。
(聞いていない、ねえ。順当に考えるのなら、依頼者の方からでしょうけれど)
思う。一体誰が、依頼したのかと。アリシアを知る者──例えば実の父親──では、無いだろう。アリシアも魔術師であると、知らない者からの依頼。
(まあ、お父様が言い忘れた可能性も、あるけれど)
アリシアにも使える魔術だ。本当に、大した魔術ではない。現に背後の気配も、何の異変も起こらないことに気付いている頃だ。
「なんだ、驚かせやがって……」
そう。異変はない。アリシアがしたことは、ただ、光を合図として送っただけなのだから。足音が聞こえる。誰かが、アリシアの合図を受け取って、こちらに向かって走ってくる。それが誰なのかなど、考えるまでもない。金属と金属がぶつかる音。その後に、柔らかい何かを切りさく音がした。地面に何かが落ちる音が、最後に聞こえて。そうして、その場は静寂に支配される。
「ありがとう」
アリシアがそう言うと、聞き覚えのある声が返ってきた。
「いえ。アリシア様がご無事で、嬉しく思います」
アリシアは組んでいた手をほどいて、目を開けた。後ろは、振り返らない。
「それは、片付けておいて」
「分かりました」
そんなやり取りの後に、後ろで何かを引きずる音がした。教会で、人知れず行われたこと。アリシアが背負ったもの。全てを知るのは、ベルトルトのみ。同情はしない。後悔もしない。失敗した暗殺者に待つものは、ただ1つ。たとえアリシアが見逃したとしても、同じ結果となる。故にアリシアは、止めなかった。けれど。もしここに居たのが、ベルトルトではなく、エミリーであれば。アリシアは、止めていたかもしれない。意味のない仮定ではあるが。
「終わりました」
「そう。……本当に、ありがとう」
ベルトルトの言葉に、そう返して。アリシアは、ようやく振り返った。床に、まだ赤いその液体が、僅かに残っている。
「帰りましょう」
アリシアがそう告げて、ベルトルトが無言で頷く。そうしてアリシアは、何食わぬ顔で帰途につく。崩れた教会は、何事も無かったかのように、その場に在る。小さな赤い、水たまりだけを痕跡として。その出来事は、終わった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます