婚姻の日(前編)
そうして、水の月が訪れる。その頃には、マクシミリアン家の長女についての根も葉もない噂話が、貴族たちの間で囁き交わされていた。アリシアは、今日も1人で、全てを整える。白いドレスを着て、髪を整えて、化粧を終える。そうして、部屋を出ようとした、その時。妹が、部屋の隅から這ってきた。
「どうしたの?」
アリシアはしゃがんで、妹の顔を見た。その手が、アリシアの手首を掴む。
「一緒に、行きたいの? 駄目よ、エミリー。あなたは、人前に出てはならない」
妹は、手を離さない。目も口もない顔。枯れ木のようになった手足。黒い体。それが人々に恐れられる姿であることは、妹が最もよく理解している。それなのに、共に行きたいと伝えてくる。
「駄目だと、言っているでしょう?」
アリシアは、躊躇なくその手を振り払う。妹は、抵抗しなかった。立ち上がり、部屋の扉を開ける。
「今晩は」
そこに、ベルトルトが立っていた。
「あら、ベルトルト様。お出迎え、ありがとうございます」
ベルトルトは頷き、アリシアの横を這う妹に目を留める。
「エミリー様。ご心配なさらずとも、アリシア様は自分がお守りします」
教会においては、誰であれ、武器を持つことができない。だが、何事にも例外はある。修道騎士。それは教会における貴族の護衛役だ。そして、婚姻の日であれば、主役には正装での出席が求められる。ベルトルトも、騎士としての正装を纏っている。妹が動きを止めた。その体を、ベルトルトは丁重に拾い上げる。アリシアはその様子を見て、興味からくる質問を、投げかけた。
「……ベルトルト様は、恐ろしいと思わないのですか?」
「あなたにとっては、何も変わっていないのでしょう。であれば、自分も同じです」
その答えがあまりにも彼らしいものだったので、アリシアはつい、笑ってしまった。
「ね、エミリー。大丈夫だって、わかったでしょう?」
妹の手が伸びて、上下に動く。ベルトルトが、アリシアに視線を向ける。
「部屋に、入れておいてくださるかしら?」
ベルトルトは頷いて、部屋に入る。妹は手を伸ばして、床を示した。ベルトルトはゆっくりと、妹を床に下ろした。ベルトルトの手が離れる。妹は動かない。彼が、アリシアの隣に戻ってくる。
「また後でね、エミリー」
そう言って、アリシアは扉を閉めた。
「よろしかったのですか?」
ベルトルトの問いに、頷くことで答える。何の訓練も積んでいないメイドが、扉を開けたことにすら、気づけない。そんなアリシアが、送り込まれる刺客に、対抗できるわけがない。にもかかわらず、アリシアは今日まで、何事もなく生きている。ならば、刺客は送られてこなかったのだろうか?
(あり得ないわ、そんなこと)
誰が命令したにせよ──それが実の父であれ──あのメイドは、アリシアを狙っていた。メイド1人に任せるには、その役目は重すぎる。その上、失敗する可能性も高い。だとすれば。任されたのは、あのメイドだけではなかったと考えた方が、筋が通る。そうして、1つの仮説が立てられる。守られなければ生きていけないアリシアが、今日まで生きていられたのならば。それは、守っていた存在がいるからだと。
(エミリー、あなたは……)
今日の様子を見て、仮説は確信に変わった。ベルトルトが護衛すると告げたことで、妹が落ち着いたのならば。妹が、手を離さなかった理由は。
(でも、どうして……どうして、そこまで……)
妹があの姿になったのは、アリシアのせいだ。そのことを気にしていなかったとしても、それ以前。彼女と会った、その時から。妹はずっと、アリシアの後についてきた。
(なぜ、私なの?)
愛されていた妹。愛さなかった姉。大切にされていた妹。何度も傷つけた姉。嫌われる理由はあれど、好かれる理由など1つもない。後悔など、しない。けれど、疑問は生まれる。
(私、何かしてあげたこと、あったかしら……?)
思い返してみても、何も浮かばない。教会へと向かう馬車に乗ってもなお、アリシアは妹のことを考え続けていた。
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