第3話 白の称号

 ちゅんちゅんと雀達の控えめで軽やかな音色が響き渡る閑静な住宅街の一角で、俺は相変わらず日課となっている謝罪の言葉を口にした。


「貴様、殺されたいのか?」


「申し訳ございませんでしたあっ!」


 端正な顔の奴は怒ったとしてもその美しさを損なうことはないが、恐ろしさは倍増するのである。忌々しいと言わんばかりに顔を歪めて俺を見つめる男の表情は、完全に鬼のそれであった。 

 どうやら今度の俺の新しい上司は、鬼畜——正に鬼の様な男であった。


 一週間の入院という短いニートを期間を経た俺は、晴れて怪しげな奴等の『使用人しもべ』としての生活が始まっていた。入院中は雇用契約の確認や設備の説明に引っ越しなど、これから始まる新たな生活への準備期間として活用されたが、一応『患者』として扱ってもらっていた訳で、そこそこ丁寧な扱いを受けていた俺は完全に油断していた。

 初日、食事をほとんど取らないという白い男——トワイライト・N・ブランは、昨日までの似非紳士態度から一変、悪魔も恐るる傍若無人な鬼と化していた。


「今日の予定は?」


「えーっと、飯はあんま食わねぇって言ってたから昼食は軽めの物を用意するつもりで、とりあえず午前中にスーパーでも買い物でもしようかなと」


 自宅兼診療所兼工房であるという俺の職場となったこの建物は、家主の性格なのかそれとも気質か、広い割に掃除が行き届いており、所謂家事代行の業務のメインコンテンツである掃除に関しては急ぐ案件では無かった。

 『家事代行 やること』で検索していた俺は、付け焼き刃ながら引き受けた以上はやらねばならぬという社会人精神の元、既に一日の段取りを頭の中で作り上げており、この家に必要なのはどちらかというと食関連であることは既に察していた。

 一人暮らしで自炊はあまり得意では無かったが、三人分の簡単な朝食を何とか作り上げた俺は、一通りの調味料類は揃っていたが食材が少ないキッチンの様子を思い浮かべながら、今日の予定を雇用主に告げたのだが、目の前の主は端正な顔を酷く歪ませている。


「貴様馬鹿か? 誰が下僕の予定を尋ねた」


「げ、下僕!?」


 これがまず、最初の認識の違いである。


「雇い主の予定も把握出来ないのか?」


「あ、そうか、そういうのも一応確認しておかないとだよな、すんません」


 確かに、通常は家主が不在の時間や任された時間内で業務を遂行するわけで、雇い主のざっくりとしたスケジュールは把握しておく必要はある。言い方は悪いが、これは相手が正しい。気になるワードはあったものの、俺は素直に謝罪の言葉を口にした。


「もう一度雇用げぼく契約書を確認しておけ。 花笑」


「はい先生! 今日は10時からくさぶえ幼稚園の健康診断、13時からは聖マリーゴールド病院の小児科で特患診療、19時からは我妻工房にて夢珠士候補者達への昇級試験対策特別講義、23時からはオンラインにて幻老院との定例会、24時から東雲まで討伐巡回が本日の予定です!」


 優雅にコーヒーを啜る男の姿は嫌になるくらい絵になるが、残念ながら俺は男であり、一瞬見惚れそうにはなったものの、それよりも俺は今日もまた一段と可愛らしい華ロリ姿の幼女——花笑の言葉にギョッとした。

 思わず口を挟もうとした俺だったのだが、


「おい、ちょっと待っ——」


「おい新入り! 運転は出来るのか?」


「え? いや、まぁ人並みには……」


 最後まで言い終わらない内に、冷たい金属の塊が俺の顔面を目掛けて向かい側から飛んできた。音を立てて俺の顔面に突撃してきたのは、車の鍵。痛みで思わず顔を抱える俺を一瞥することもなく、トワイライトは優雅にコーヒーカップを傾けた。


「9時には出る。 それまでに用意しておけ」


「は? え、俺が運転するのか!? って待て待てそうじゃない!」


 何だ、と怪訝に細められたそっくりの四つの眼が俺を捉えた。一緒に住んでいると表情も似てくるのだろうか。


「いや、幼稚園とか病院とかって何だよ! それに夜まで予定がびっしり入り過ぎじゃねーか!」


「全くだ、夢珠の研究時間を確保できないのは口惜しい。 老ぼれ共との会合ほど無駄な時間はない」


 ちなみに、幻老院とは国際夢珠使協会に存在する諮問機関であり、一言で表すならば世界的規模でとても偉い人達のことであるのだが、目の前の男にとってはそうでもないらしい。無視するか、など失礼千万甚だしい言葉を口にしている。

 これがデフォルトであるのならば、これに慣れていかなくてはならないのだろうかと俺の頭を不安が過ぎるのは当然だと思いたい。


「主、流石に今回は参加しないと《ブル様》が可哀想かも……」


 珍しく花笑が男に対して細々とした諫言を口にした。おずおずと上目遣いでトワイライトを見つめる姿はどこかいじらしさがある。

 一瞬何かを考えた男は重い溜息を吐くと、彼女の言葉を肯定する。その後、男が静かに席を立つ音と俺と花笑が言葉を発した音の全てが重なった。


「え、ってまさか——」


「おい新入り!」


「って何だよ!」


「9時までに表に車を回しておけ」


 コーヒーカップを持ったまま、やはり俺を一瞥することなく長い足を優雅に運んでトワイライトはダイニングから出て行った。


「そもそも、本来なら下僕が主と同じ食卓に座るなんて許されないんだからな!」


「っていうか、さっきから下僕下僕言うけどな、じゃあお前は何なんだよ?」


「私はしもべだ!」


「って下僕と変わんねぇじゃねぇか!」


 花笑が堂々と言い放った言葉は、俺に当てられた役割と何も変わらないと思っていた俺は、そもそも、こんな幼女に家政婦みたいな真似をさせるトワイライトという男は一体何を考えているのだろうと疑問を持ってしまった。

 目の前で小動物のように口を動かしてトーストを齧っている花笑をじっと眺めながら、俺は最初の会話と共に男のステータスを思い出す。


(家に居るのは幼女の家政婦で……幼稚園に小児科って言ったら子供だらけで、やっぱり家に居るのは華ロリで……ってまさか、)


「ロリコ——」


「貴様、殺されたいのか?」


 地獄の底から這い上がってくるような声に最後の一文字を掻き消された俺は、文字通り背筋が凍った。恐る恐るダイニングの入り口に顔向けると、いつの間にか戻ってきていたトワイライトが、嘘偽り誇張のない鬼の形相で俺を睨みつけていた。美人がキレると怖いとはよく言うが、正直に言おう。糞上司に理不尽な暴力をふるわれたこととか業績を上げないとクビにすると脅されたこととか取引先と縁を切られてしまったこととかそんな社会人が抱く恐怖が光の速さで駆け抜けていくほど、つまり、めちゃめちゃ怖い。何がって、トワイライト・N・ブランが怒った顔である。

 俺の生存本能が、俺が考えるよりも先に勝手に動いてくれたことに、後の俺が涙を流して感謝する位には、本気でその顔面に殺されると思った。


「申し訳ございませんでしたあっ!」


 床に向かって大きく頭を下げて土下座をかました俺の頭が生み出したごつんという派手な音が閑静な住宅街に鳴り響くのも、残念なことに、日課となったのであった。




 そんな、キレたご尊顔が大層凶悪で悍ましいトワイライトという男は、そんな物騒な武器とは相反して、医者、もっと言えば小児科医という非常に優秀かつ献身的な存在という盾を持っていた。


「診療所はたまーに急患を診るだけ。 昔はもっとちゃんとやってたみたいだけど、今は工房業務が中心で夢魔病罹患者向けの治療の受付が殆どだ」


 恐ろしい鬼が絶対零度の視線を携えながら俺に連絡専用端末を投げ付けて再び出て行った後、もぐもぐと食事を続けている花笑からこの診療所の今の在り方を聞いていた。そういう説明は入院中という名のリアルニート期間に教えて欲しかったが、患者に余計な情報は入れないという妙なプロ意識からか、トワイライトは何も教えてくれなかった。

 それは、《工房》のこともそうだった。診療所という名前に隠されているが、トワイライトのもう一つの顔——夢珠使いは、上位の存在であれば各々工房を構えている場合が多い。夢珠師であるトワイライトも勿論工房を持っており、実はそれがこの診療所である。


「主曰く、『夢魔病のを行うのだから診療所のままで問題ない』って」


 声音は全く似ていないが言い方はそっくりであり、妙な説得力がある花笑の言葉を何でもないただの人間であれば幼女が男を表現するそのギャップに対して笑いながら、「へーなるほどな」なんて口にしたかもしれないが、残念ながら俺は何でもないただの人間ではない。である。トワイライトという男が何でもないように口にしたその言葉が、男が如何に優秀であるかを物語っていることに気付くことなどあまりにも容易いが、それを受け入れる心構えは残念ながらまだ持っていなかった。


「本当に一人で創って一人で使えるのかよ……」


「新入りぃ、お前はまーだ疑っているのかぁ?」


 あぁ?と花笑が完全に柄の悪い不良のそれで俺を下から睨みつけてきた。可愛い顔が台無しである。


「全く、主がグラン5だと言うことは流石に鈍臭いお前でも分かってるだろう?」


 グラン5——それは、夢珠使い達の憧れであり、至高のランクである。ルージュブルジョーンヌヴェール、そしてブラン。それぞれの色を司る存在は全員が夢珠師であり、世界中に五人しか存在していない希少な人間。彼らは自らの手で夢珠を創り出し、そして誰の夢珠に対しても主導権を持ち得てしまう夢珠使い達の頂点に君臨している。夢に纏わる全てを支配していると言っても過言ではなく、偶然にもそれを体験した俺は、その力の偉大さを改めて実感したばかりである。


「トワイライトってやっぱりブランなのか?」


 貰った名刺の中の男の名前には、間違いなくブランの文字が含まれていたのは今朝も確認したばかりだった。一週間経っても俺は未だ信じることができなかった。


「そうだ! 凄いだろう!」


 やはり花笑が偉そうな態度と誇らしげな笑顔で言い放った。 

 俺が信じることが出来ない理由はそれであった。

 グラン5の実力は殆ど拮抗しているため優劣がないと言われているが、その中でもブランは最も優秀な存在が選ばれると言う都市伝説的なものがある。超人達の実力差など一般人からしたら全く分からないし実際に差があるのかも知らないが、それでもブランは特別視されているのは周知の事実であった。


「そりゃ一千万なんて安い方だろうな」


「漸くお前も主の偉大さが分かったか!」


 お手本のようなどや顔を見せる花笑はむかついたが、大人であるし事実であったため俺はもそもそと自分で焼いたトーストを齧った。


「お前達、いつまで食べているんだ」


 先程のワイシャツ姿ではなく、奇抜だが品の良さそうな白いスーツを纏ったトワイライトがダイニングに姿を現した。既に準備万端だと言わんばかりの姿は、確かにブランの称号に相応しい。


「とっとと準備してこい」


「はぁい」


 トーストを咥えながら返事をして去っていく花笑に、食べながら話すな、と叱る男は存外優しい声だった。

 そういう姿も合わせると傍若無人な言い方さえなければもっとすんなり尊敬できるんだよな、と思ったが、そうであったら彼らしく無いかもしれないとも思えた。品行方正純粋無垢が似合う白をその通りに着こなす人間よりも、俺は確かに多少癖のある目の前の不機嫌そうな男の方が好ましい、と。


「貴様の様な愚図が、死ぬまでに一千万円を返済できるかどうか楽しみだな」


 腕を組み扉に寄りかかったまま虫を見る様な眼で俺を見つめるトワイライトは、やっぱり絵になるが悔しい。というか、もしかしてさっきまでの会話を聞かれていたのではないかと思い、別に悪い話をしていたわけではないが、人の噂をしているところにご本人登場は中々気まずさがある訳で。


「すみませんでしたぁ!」


 悪くはない筈が俺の口は勝手にその言葉を口にし、俺の足は駆け足でダイニングを出て与えられた部屋へと向かったのであった。

 だから知らなかった。

 俺と花笑がダイニングを出た後、トワイライトの口元に弧を描いていたことを、自分が持ってきたコーヒーカップと共に俺達が片付け忘れていた食器も洗ってくれていたことを——男の分かりづらい優しさに、俺はまだ気付かない。

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夢珠綺譚 海月らいと @blackalice

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