第2話 真白な男

 ぼんやりとした視界の先には、赤く点灯した『手術中』の文字。それは初めての時から変わらない見慣れた景色だった。


——また、この悪夢ゆめか……


 ここ最近頻繁に見させられるこの景色が、俺を落胆させた。

 そろそろ来るだろうと思い座ったまま身構えていると、俺の耳は想像していた通りの音を捉えた。焦りで絡れそうになりながらも懸命に走るヒールの音。呼吸さえままならないと言わんばかりの荒い息。のろりと向けた俺の澱んだ目は、息子を想い駆けてくる綾斗の母親の姿を捉えたのであった。


「空人くん! 綾斗は!?」


 到着して息を整えることもなくすぐに発した彼女の声は震えていた。荒い呼吸が静かな病院内に広がる。

 いつもの様に力無く首を横に振る俺に、普段は温厚な綾斗の母親が掴みかかってくる勢いで迫った。


「貴方、一緒にいたんでしょ!? なのにどうして綾斗が……!」


「おばさん……」


「どうして助けてくれなかったの……!!」


 泣き崩れた綾斗の母親に俺はなんと声を掛けたら良いか分からなかった。響き渡る彼女の嗚咽が俺をさらに追い詰めていく——。


「貴方が……貴方が代わりに轢かれてしまえば良かったのよ……!」


 頭をガンと鈍器で殴られたみたいだった。何度聞いても慣れることのないその言葉。初めに深く抉られた俺の心は、同じ傷口から何度も肉片をぐちゃりぐちゃりと毟り取られる内に、いつの間にかぽかりと大きな孔を生み出した。貫かれた心の周りから、徐々に俺という存在すらも毟り取られていく。


——そうだ、俺が代わりになっていれば……俺さえいなければ……


 わんわんと泣き喚く綾斗の母親と呆然と佇む俺の背後で灯っていた赤いランプが消えた。中から現れたのは、手術着の上に白衣を纏った無機質で美しい顔の男。


「先生っ……! 息子は……綾斗はっ!?」


「一命は取り留めました、あとは彼次第でしょう」


 男の背後の扉の中からがらがらと音を鳴らして運ばれてきたのは、白いシーツと包帯に身を包んだ綾斗。

 ベッドの上に横たわる息子に縋り付き譫言の様に名前を呼び続ける母親の横で、男は美しい顔を歪めて苦しげに言葉を発した。


「ただ、いつ目覚めるかは我々も分かりません。 明日か明後日か、1年後……いえ、このまま目を覚まさない可能性もあります」


「そんな……!」


 泣き崩れる綾斗の母親の背中を俺はぼんやりと見つめた。それもいつも通りの光景だった。

 だから俺は分かっていた。次に目の前の男になんて言われるのかを。


「君も辛いだろうが……目の前で友人が轢かれるのを目の当たりにして、ショックを受けるのは仕方がない事でしょう」


 男は無機質な顔を人形みたいな笑みで彩り、俺の肩に手を置いた。


「助けを呼ぶことが出来なかったのも仕方がありません」


 男の言葉に、綾斗の母親は思い切り顔を歪め、責める様な目で俺を凝視している。


「せめて、友人の君がお見舞いくらいは来てあげてください。 そうすれば、きっといつか彼は目を覚ましてくれますよ」


 横たわる綾斗をチラリと見た男は、まるで俺にはそれしか出来ないと、そうすることでしか許されないと、そうすることでしか生きていけないと——嘲笑うかのような優しげな口調で暗示をかけていく。


 ——そうだ、その通りだ、俺に出来るのはその程度……


 俺は、この先の言葉を知っているせいか、男が言葉を発するよりも先に全てをて、目の前の男から贈られる罪状を待っていた。

 だが、突如俺の知らない世界が、この世界を侵食し始める——。


「それが、彼への、せめてもの罪滅ぼ——」


 男は最後まで言葉を発することが出来なかった。俺の後ろからその端正な顔面目掛けて飛んできたのは——真っ黒な刀が。男の美しい顔の中央には禍々しいほどの漆黒の刀が無惨に突き刺さっている。ぐしゃりと崩れ落ちた男の頭部からは脳漿がぴしゃりと飛び散り、真っ赤な血がどくりどくりと世界を侵食するかのように流れていく。突き刺さったままの漆黒の刀がぬらりと輝いた。

 それは、今までと違う、新しい世界の始まりだった——。


「反吐が出る」


 背後から聞こえた無機質な声に俺は驚愕した。

 咄嗟にその主を確かめようと振り返った俺の視線の先には——目の前で頭部から鮮血を流し哀れに倒れ込んでいるの真白の男が立っていたのである。

 

「随分と失礼なだ」


 カツカツと音を立てて廊下を歩く男に対して、この世界の誰も反応することが出来ない。


「あまりにも事実と異なりすぎている夢は精巧さに欠けるな。 私がこんな偽善に満ちた言葉を吐くとでも思ったのか?」


 先程の優しさという偽善に包まれたイメージとはかけ離れた、不愉快極まりないという顔に歪められた真白な男は、この世界の誰よりも人間味があった。


「実にお粗末な悪夢だな、Eランク以下……私なら落第にするレベルだ」


 ぁ、と無意味な音を口から溢した俺の横を颯爽と通り過ぎた男は、物言わぬ綾斗と男の存在に呆気に取られている綾斗の母親の横を通り抜け、自身と瓜二つの顔の残骸顎元をぐちゃりと質の良さそうな革靴で踏みつけながら、突き刺さっていた漆黒の刀を引き抜いた。

 黒光りする刀身から滴る生紅をまるで穢物でも見るかのような眼で見つめた後、ぴしゃりと振り払った。


「だが、これが貴様の悪夢の一端か」


 その言葉は、誰に向けたものだったのだろうか。

 すると、男を恐れていた筈の綾斗の母親がゆらりと立ち上がり、


「が、ががっ——」


 人とは思えない呻き声を発しながら、通常ではあり得ない方向に関節を曲げ、四つん這いになった。それはまるで人形、獣——いや、悍ましい化け物の如く。顔は醜くひしゃげ、白い歯を剥きだしにした歯茎は赤黒く、両手には青黒い血管が無数に浮き出ている。ぎょろりと大きく見開かれた血走った目が白い男を捉えたその時、


「ぎっ、ががっ、がががが——」


 綾斗の母親だったそいつは、素早い動きで男に襲いかかった。それは、相手を確実に排除しようと——殺そうとする意思しか持っていない動きだった。


「下らない」


 真白の男は肩に刀を担いだままそう吐き捨てた。上品そうな見た目とは裏腹のその粗野な態度は、誰が見てもちぐはぐだと感じるものであったが、不思議とその男に似つかわしくも思えた。

 異形の剥きだしの歯が男の目の前に迫った——次の刹那、

 

 ——ざんっ、


  女だった顔が宙を舞った。


 ——ぼとりっ、


  と、それが転がり落ちたのと同時に、その両首元から赤黒い液体がぶしゃと無慈悲なシャワーのように清潔な病院の廊下に降り注いだ。白いベッドに横たわる綾斗は勿論、俺の顔にもぴちゃりと赤黒いそれが飛び散った。

 男の目の前まで迫っていた異形の頭のない胴体はどかりと膝をつき、ぐしゃりと崩れる様に倒れ込んだ後、それに続くように俺は腰を抜かして冷たい筈の廊下に座り込んだ。手にある筈のないぬちゃりとした感覚が付き纏う。静寂に包まれていた病院の廊下は、殺戮の舞台へと姿を変えたのだった。

 凄惨な光景が眼前に広がる中で、真白の男はあまりにも綺麗だった。染み一つ無い、何物にも染まらないその姿は、ただただ美しかった——。

 だと分かっていても、あまりにも非現実的でありながら現実の気配を感じる世界に、俺の寝ている筈の脳は混乱を極めていたが、


「いい加減起きたらどうだ、それとも逃げ道でも探しているのか?」


 男は黒い刀身についた穢れをスーツを胸元を彩っていた真黒のハンカチーフで拭いながら、再び誰かに向かって言葉を投げた。刀身を綺麗に拭い去る同じ色の布切れを俺は呆然と目で追っていたが、男が拭い終わったその布切れをある方角に投げ捨てたと同時に、俺の背後でぬくりと立ち上がる人影があった。


「あ、やと……?」


 ひらりと舞った黒い布の向こう側に見えたのは、眠りの呪いに掛けられた筈の友——綾斗の姿だった。

 何年か振りに見た二本の足で立つ綾斗の姿に、俺は歓喜ではなく恐怖を感じた。


「先程の夢魔はお前に気付いていなかった様だが、随分と深い所まで根差しているんだな。 恐れ入るとは正にこの事か」


 男の言葉を、綾斗は笑みを携えながら黙って聞いている様だった。こつこつと質の良い革靴を鳴らして、男は綾斗に歩み寄っていく。手元に握られた黒い刀が、ぬらりと妖しく煌めく姿が、恐怖にも勝る焦燥感を俺の中に湧き上がらせた。


「お、まえ……綾斗に何をするつもりだっ……」


 俺は咄嗟に手足をばたつかせて男の足に縋りつこうとしたが、届くはずの距離にある男の足は不思議と俺の手で掴むことが出来なかった。

 ちらりと俺を見遣った男の眼は、案外と悪く無かったことに俺は動揺した。


「私にも責任がある……覚えておけ、これ以上好きにさせるつもりはないと」


 男が黒い刀を優雅に綾斗の首へと突きつける。それを見た俺の中で罪悪感と——ほんの少しの安堵が滲みの様に広がっていく。

 そんな俺を見る綾斗の顔が——。


「や、やめろ……」


 震える声は、一体何の為に発したのか、最早俺自身にも理解できなかった。

 ただ——、


「惑わされるな」


 男の鋭い声に、俺はハッとした。


「これは悪夢だ」


 男の凛とした声が、俺の頭の中に響き渡る。急速に意識が遠のく。


「おやすみ——空人くん」


 ——ざんっ、


 舞い上がった誰かの頭の気配を感じる間も無く、俺の意識は男の声に導かれるように、真っ白な世界へと溶けていった——。

 ——だから俺は知らなかった。

 消えていく世界の中で、ぼとりと転がった綾斗の首にくっくりとした笑みが浮かんでいたことを——。

 






 ぼんやりとした視界の先には、赤く点灯した『手術中』の文字。初めての訪れた場所は俺に不安と焦燥感を与えた。祈るように握り込んだ両の拳は、力を入れすぎて白くなっていた。

 ふと俺の耳が捉えたのは、焦りで絡れそうになりながらも懸命に走るヒールの音。呼吸さえままならないと言わんばかりの荒い息。はっと顔を向けた先には、息子を想い駆けてくる綾斗の母親の姿があった。


「空人くん! 綾斗は!?」


 到着して息を整えることもなくすぐに発した彼女の声は震えていた。荒い呼吸が静かな病院内に広がる。

 力無く首を横に振る俺に、綾斗の母親は落胆の色を隠さなかった。だが、彼女は俺の横に座ると、力強く握られていた俺の両手をそっと包み込んだ。走ってきたせいか、彼女の両の手はうっすらと汗ばんでいる。


「大丈夫よ」


 綾斗の母親の声は、不安と焦りを必死で押し隠そうと震えていたが、俺に優しい音として届けられた。

 何が起こったか分からぬまま見知らぬ大人に連れてこられた先で漸く会えた知った人の姿は、罪悪感よりもまず俺に安堵をもたらし、彼女の声は俺の緊張を解していった。溢れそうになる涙を堪えていた俺を見た綾斗の母親は、俺をそっと抱き寄せた。


「大丈夫よ……」


 もう一度同じ言葉を繰り返した彼女の声は、震えていなかった。


——そうだ、俺はこの時おばさんは『強い人だな』って思って……


 抱きしめられたままの俺の背後で、灯っていた赤いランプが消えた。重苦しい扉の中から現れたのは、手術着の上に白衣を纏った無機質で美しい顔の男——現場で綾斗に応急措置を施した白いスーツの男であった。ハッと息を飲む俺たちを男は一瞥すると、非情な言葉を口にした。


「一命は取り留めました」


 ほっと息を漏らした俺達を余所に、無機質な声を歪めて男がぼそりと呟いた言葉は俺の耳にだけ届いた。


「実にだ」


(厄介って……!)


 あれだけ『生』への執着を見せつけていた男から発せられたとは思えない言葉に俺は激怒し、ぎりりと歯を食いしばりながら鋭い視線を男に向けた。

 俺の様子を気にすることもない男の背後の扉の中からがらがらと音を鳴らして運ばれてきたのは、白いシーツと包帯に身を包んだ痛々しい姿の綾斗。静かに近付く綾斗の母親の目には涙が浮かんでいたが、泣き崩れることはなく、小さな声で愛息子の名前を呟いていた。


「最善は尽くしました。 身体の損傷は激しかったですが、安静にしていれば1ヶ月もあれば完治するでしょう。 ですが、頭部を強く打ちつけたことにより、脳への影響が懸念されています。 2、3日で目を覚ませば良いですが、それ以上の時は覚悟を決めておくように」


 それは、あまりにも残酷な通告だった。しかも、男の言い方は後者であることを強く意識させるものだった。

 男の言葉を聞いた綾斗の母親はグッと何かを堪えならがも、男に向かって頭を下げた。それを見て頷いた男は、ベッドを押していた看護師達に視線をやった。


「私はこの病院の者では無いので、あとは主治医に聞いてください」


 その言葉を切っ掛けに綾斗を乗せた白いベッドは、静かな廊下をがらがらと音を立てて進んでいく。男は暫しベッドに眠る包帯だらけの絢斗が運ばれていく行方を、無機質な眼で眺めていたが、では失礼、と簡素な言葉を残して俺達に背を向けて颯爽と去っていく。

 頭を下げ続ける綾斗の母親の横にいた俺は我慢できず、その男の元に走り寄って引き留めた。


「待てよ! って何だよ!? 折角助かったんだぞ!? それなのにそんな事……あんた、それでも医者なのかよっ!!」


「ええ」


 悪びれもなく言い放つ男は、俺の怒りなど気にも留めていない音を放った。

 絢斗を死の淵から救ってくれたことは、本当に感謝している。男が行ったのは確かな医療行為であり、それに対して憤る理由無かった。残酷な言い方だが、綾斗の症状を説明する言葉も事実であり、それもまだ許せた。だが、目の前の男の小さな呟きをこの時の俺は許せなかった。

 白衣に突っ込んでいた手を取り出した男は、顎に手を当てたまま憤る俺を暫し見つめたまま、なるほど、と呟いた。


「彼が目覚めなければ、君は永遠に囚われる事になる。 それに耐えられるのか?」


 俺は、男の言っている意味が分からなかった。話を逸らされたと思った。だが、男の続ける言葉に、俺はどんどん引き込まれていった。


「今日こそは期待をしながら開けた扉の先に広がるのは一切の変化のない景色、そんな日々の繰り返しを想像したことはあるか? 意識の無い重く温かい身体を世話をする勇気はあるのか? 来る日も来る日も答えることのない問い掛けを口にする虚しさを受け入れられるのか? いつ終わるのかと辟易する自分の心に気付き呵責の念に囚われる日々を過ごせるのか? それら全てをこの先何年、何十年と繰り返していく——」


 男の白銀の眼が、俺を射抜く。

 

「いつ目覚めるかも知れない存在を見守り続けるとはそういうものだ……君にその覚悟はあるのか?」


 男に突きつけられた現実が、俺に重くのしかかる。


「お、俺はあいつが生きててくれれば……」


(何でだ、生きていればいい、それだけじゃだめなのか……?)


 俺は男の言う世界を想像してしまった。繰り返される先の見えない未来を——。


とはそう言うことだ」


 今度は、男の言った言葉を俺は否定することが出来なかった。

 眠ったままの綾斗の顔が浮かび、俺はじくじくとどす黒い罪悪感に侵されていく——


「逃げるな」


 男の鋭い言葉が、俺を現実へ引き戻した。


「例え彼への罪悪感で潰れそうになっても、君は自分の人生を自分のために生きるべきだ」


 白銀の眼が、俺を真っ直ぐに捉えていた。揺るがない意思の強さ——あの時、綾斗の命を繋ぎ止めようとしていた強い眼だった。


「他者の人生せんたくを背負う必要はない。 君が自分で選び、自分の足で己の人生を生きながら——まずは自分を救ってやれ」


 それだけ言うと、男は白衣を翻しながら静かに去っていった。

 俺は、その白い背中をぐちゃぐちゃになった頭の片隅に憧憬を宿しながら、呆然と見送った。


 ——その日から俺は、『悪夢』を見るようになった。










 思い出ゆめの世界でを思い出しかけた俺は、結局その何かが分からないままゆっくりと瞼を開けた。久しぶりに見た懐かしいそれは、肝心なことが掴めなかったわりに、不思議といつもよりも穏やかな目覚めを俺に齎した。


(あの時の夢なんて何年振りだろうか……)


 とても良い夢とは言えない筈が、俺の中にはひそりとした平穏が訪れていた。眠る前はあんなにも荒れ狂っていた心が、今は嵐の後の海原の如く凪いでいる。こんな気持ちはいつ以来の事だろうか。

 ぼんやりとしたまま自分が寝ていたベッドの上から部屋を見渡すと、そこは見慣れぬ場所であった。はて此処はどこだろう、となんとなく半開きの扉に目を向けたら、ふと、双つの眼と視線が絡まった。

 ——それは、小さな女の子だった。頭上あるドアノブに手を伸ばしたままの姿で固まったまま此方を見ていたのは、やや中華服っぽい所謂華ロリを身に纏った幼女。白を基調とした彼女の服には、黒が縁取りに使われており、所々に青系統のレースが配らわれている。銀色の髪の毛先だけが黒が染まっているのカラーリングが珍しい。可愛らしい顔立ちを彩る大きな目は虹彩が特徴的で、金色がきらきらと輝いている様に見えた。

 そんな彼女の美しい瞳は、俺を捉えたまままん丸と見開かれている。


「えっと、此処は一体……」


 尋ねる相手はその子しかおらず、仕方なしと俺は恐る恐る声を掛けたのだが、


「あ、あ……あるじー!!」


 そう言って幼女は物凄い勢いで部屋を出て行ってしまった。不意をつかれた俺は、主ってなんだと暫し悩んだが、


「っていうか待ってくれよ!」


 急いで追いかける為にと絆創膏が巻かれた手を伸ばして立ち上がろうとしたが、思いっきりシーツに足を引っ掛けてしまい盛大に床とこんにちはをする羽目になった。


「うぅおぉぉ……」


 顔面ダイブの痛みに蹲っていると、きぃという扉の音と共に男の声が聞こえた。


「おや、また寝ているのですか?」


 男の声よりも、コツコツと鳴らす靴音があり得ないほど夢の中と寸分違わぬもので、俺は勢いよく顔を上げたが、そのまま細長い指で顎を思い切り掴まれ、強制的に相手の顔を見続けさせられる格好になった。首がごきりと鳴った音が聞こえたが、気のせいだと思いたい。


「診療所の中で怪我を増やすとは、全くもって迷惑な患者様ですね」


 思っていたよりも近くにあったその顔は——無機質で美しい顔だった。白銀の片眼が俺の鼻先を忌々しげに見つめている。至近距離でイケメンに顔をガン見された平凡な顔の俺は、妙に気恥ずかしくなって慌てて目線だけを必死に動かして男の追求から逃れようとしたが、


(あれ、っていうかこの男って……)


 男の美しさに気を逸らされていたが、それは意識を失う前に出会った、『夢売人』の男だった。意識を失う前と異なる点といえば、男の頭に馬鹿みたいなシルクハットなどなく、白いスーツの代わりに白衣を纏っていたこと。


「お、お、お前はっ——」


「うるさい」


「——っあっごごごぉぉ!!」


 至近距離で叫んだのが気に入らなかったのか、俺の顎をぎりぎりとその美しい指で締め上げたあと、ぽいと投げ捨てた。ぼとりと俺の首が地面に落ちる音がしたが、夢の世界とは異なり、俺の首が繋がったままであるのは当たり前であるが幸いである。


「主、こいつ大丈夫なのか?」


 さらに傷ついた俺の顔面——じくじくと傷む額を押さえながら蹲る俺を、男の後ろからひょこりと顔を出して呆れた顔で見ているのは、先程の華ロリちゃん。


「私は医者だが、精神科は専門外だ」


 ——なんて失礼な奴らなんだ!


 と声を大にして言いたいところであるが、夢を見る前の公園でのあの出来事と先程の安らかな目覚めを思い出した俺は、流石に口に出すことは無かった。その代わり、頭上で侮蔑の眼を向ける男に恨みがましい視線を送る些細な反撃を控えることは出来なかった。

 いってぇ、と言いながら床に座り直した俺は男の先程の言葉に気付き、はたと動きを止めた。慌てて男の美しい顔を見上げながら、


「っていうか医者!? あんた、『夢売人』じゃ無かったのか!?」


 と素っ頓狂な声をあげたら、今度は思い切り眉を寄せた男が俺の首根っこを掴み、そのままベッドへと放り投げた。薄手のシーツは俺の尻を保護することなく、がしゃんというベッドの大きな悲鳴とうわっという俺の情けない悲鳴が部屋の中に響き渡った。


「はぁ? 売人? 何を言ってるんだお前」


 益々呆れたと言わんばかりにその金色の眼を細め、腰に手を当てた華ロリちゃんは、何故か偉そうに次の言葉を俺に叩きつけた。


「主はな、『夢珠師』だ!」


 どどんと背後で太鼓でも鳴っていそうなほど踏ん反り返る華ロリちゃんの隣で、当の本人は未だ不機嫌そうな顔で俺を見ていた。


「え、夢珠?」


「ばか、夢珠だ! まさか知らないのか?」


 信じられない物でも見たかのような顔で俺を見る華ロリちゃん。

 勿論その存在を知っている俺は、


「はぁ!?」


 と奇声を発すると、華ロリちゃんに負けじ劣らずの顔で、眉を顰めた程度では美しさを損なうことがない真白の男を凝視した。

 『夢珠師』——その存在を知らない者は居ないだろう。

 『夢珠使い』の間でも頂点に君臨する『夢珠師』は、世界中合わせてもたったの五人しか存在しない、あまりにも希少な存在である。彼らの作る夢珠は最早と呼ばれ、億単位での取引が行われるほどである。


 ——ってことは、ちょっと待てよ……?


 俺は、俺が仮定した話を進めるうちに、顔が真っ青になっていくのを感じた。頭の血が一気に冷え切っていく感覚を——。

 段々と俺に近付いてくる男の顔は、先程とは打って変わり愉しげに歪められていた。コツコツと鳴る靴音は、夢の時とは似て非なる恐怖を俺に与える。ベッドの淵にいた俺は、迫り来る男から逃げるようにベッドの奥の壁へとへばり付くように後退りをしたが、そんな物は無意味であった。

 コツッと一際大きな音が部屋中に響く。

 一瞬の静寂の後に俺に襲い掛かるのは、ぎぃと簡素なベッドが軋む音と、男の気配——俺を逃さないと言わんばかりに、どんっと男が俺の頭上の壁を腕で鳴らす。すんと鼻を擽るの消毒液と僅かな香水の馨がまるで真白の男に抱え込まれた様な気分させる。


 ——おいおい、俺は別に男が好きとかそんなんじゃ……


 男の妖艶さにあてられた俺が思わず顔を真っ赤にさせていると、男はそのまま俺の顎を優しく掴み、耳元にそっと唇を寄せていくが——。


「逃げられると思うなよ」


 囁かれた言葉は、まるで借金取りの如く中々にドスが効いている鬼の声音だった。


「ひ、ひぃぃ!」


 無駄に色っぽい展開でドキドキしていた俺のハートは、色んな意味で見事に打ち砕かれたのであった。

 あっさりと俺から離れた男は、ベッド脇に置かれていた丸椅子にどさりと座り、俺に目線でベッドの淵に腰掛ける様に促した。

 いつの間にか華ロリちゃんが蓋を開けて差し出していた救急箱の中から、透明な液体とガーゼを取り出した男は、俺の顔面——額に向けて謎の液体をぶち撒けた。


「いででででっ!」


 滴る液体は計算されたかのように俺の鼻にまで到達していたのが憎らしい。痛さで喚く俺を気にすることなく、次いで思いの外優しい圧で余分な水分をガーゼで拭き取っていく。


「君に使った私の夢珠の値段、いくらか教えてあげましょうか?」


 淡々と処置を進める男の口元は、その手際とは同様に無機質に言葉を発する。


 ——ぱしんっ、


 と小さな音を立てて額に貼られた一際大きな絆創膏を男は細長い手で上からそっと押さえたまま、先程とは逆の耳元へと形の良い唇を寄せていき、


「一千万」


 男ですら孕んでしまいそうな声でそう呟いた。あまりの色気に背筋がぞくっと疼いた俺だが、言われた金額にはたと気付いて思わず勢いよく立ち上がって叫んだ。


「い、いい、いっせせせんままん!!??」


「うるさい!」


 そんな馬鹿な、と奇声を発する俺の脛を思い切り蹴り上げたのは、今まで黙って聞いていた華ロリちゃんだった。


「す、ねは、だめだろ……」


 痛みのあまり脛を抱えてベッドに逆戻りした俺に向かって、


「一千万なんて、主の夢珠の中では安い方だ」


 と、ふんと鼻を鳴らして腕を組む華ロリちゃんは、やはり威張り切った態度であった。痛みで蹲りながら、俺は彼女の言葉を反芻した。もしも、目の前で蛆虫でも見るような視線を俺に向けている男が、『夢珠師』だと言うのならば、確かに彼女の言葉は正しい。それくらい、彼らの存在は極めて希少である。


「ちょ、ちょっと待ってくれ……そ、そんな大金とてもじゃないけど払えねぇよっ!!」


 簡素な椅子に座り偉そうに長い手足を組んで、がばりとベッドの上で起き上がって哀願する俺を黙って見ていた男は、


「それなら、身体で払ってもらうしかないですね」


 と、いつの間にか着替えさせられていた水色の患者衣の上から胸辺りに右手を添え、つと俺の身体のラインをなぞるように這わせたかと思った次の瞬間、思いっきり胸ぐらを掴んで、ベッド脇に頭が掛かるように乱暴にぶん投げた。


「ぐえっ」


 首だけベッドの外に放り投げられた俺が、尻だけが高く上った状態の情けない格好で呻き声をあげた次の瞬間、俺の正面——俺と男の間に華ロリちゃんが立ち塞がり、とう、っとなんとも可愛らしい掛け声と共に俺の鼻先にやや乱暴な手つきでペチンと絆創膏を貼り付けた。


花笑かえ


「はい、先生!」


 男の淡々とした呼び掛けに、華ロリちゃんは元気良く返事を返した後、両手を上にあげて万歳のポーズを取った。それを見た男は、彼女のそうではないであろう行動を気にした様子はなく、自ら肩に掛けてあったタブレット端末を細長い指で掴んだ後、肩紐ごとするすると上まで持っていきひょいと拐っていった。ある意味で抜群のコンビネーションではあるが、今の俺は、それを指摘する勇気を持ち合わせていなかったのは口惜しいところである。


「君、確か今は無職でしたよね?」


 何が記されているか分からないタブレット端末を見ながら、あまり知られていない筈の俺の現状を確認する男の顔は、無機質な美しさの中に妖しさが蠢いている。俺はさっきのシュールな映像のことなどすっかり忘れ、己に迫る危機を感じ取った。


「ニートだニート!」


 俺の目の前にしゃがみこんで、新しく貼られたばかりの鼻先の絆創膏をつんつんと指で突きながら茶茶を入れる華ロリちゃんの顔には、にししと笑みが浮かんでいる。完全に面白がっている人間のそれであった。


「丁度雑用係が欲しかったところですし、部屋も余っているので此処に住み込みで働いてもらいましょう。ので、勿論働いた分の給料はお出しします。 借金は給料から天引きさせていただくとして、10年もあれば完済出来る金額をお約束しますよ。 あぁご心配なく、の治療費は一応私のということでサービスしてあげましょう」


「主、太っ腹!」


 タブレット端末に添えてあった電子ペンシルで何かを記入しながら淡々と俺に決定事項を告げていく男の膝上に、華ロリちゃんがひょいと飛び乗り、男とタブレット端末の間から顔を出して共に液晶画面を眺めている。これも追加しようあれもやってもらおう、と男の目の前できゃっきゃとしながら口を出す彼女は、無邪気さに溢れた可愛さを纏っていたが、そんな可愛さに騙される訳にはいかなかった。未だ素性が知れぬ妖しい男と、妙に生意気な幼女といきなり共同生活だなんて堪ったものではない。ただでさえ夢魔病で眠りが浅い俺が、いくら住処を提供されるとはいえ、他人と暮らすなんて不可能である。

 久々に快適な目覚めを手に入れたばかりの俺の中には、それが誰によって齎されたかを忘れ、見知らぬ存在との共同生活によって生じる弊害を想像の末、拒絶の意思が生まれていた。

 そもそも俺の中で、これら全ては奴等が話した事柄から仮定した話であり、顔面の治療はともかく、肝心な事が事実かどうか未だ見極められていなかった。

 俺には、最早そこを突くしかこいつらから逃れる道は残されていない——。


「そ、そもそもあんた本当に『夢珠師』なのか!? 公園で会った時、俺が『売人か?』って聞いたら、あんたはそうだって……!」


 もしも、目の前の男が『夢売人』であれば正規の取引では無いため、何とか警察なり夢珠使いの協会に泣きつけば、支払いの義務と認められて一千万なんて大金を支払わずに済むかもしれない。何を今更、という顔で男の膝の上から俺を見遣る華ロリちゃんの視線を気にしている場合では無かった。

 

「『夢珠師』とて、を売る存在であることには違いない」


 男の口から初めて、己が夢珠師である事を示唆する言葉が放たれた。タブレット端末をベッド脇のテーブルに置き、男はキャスターを操り身体ごと俺の方を向いた。無機質な眼が俺を射抜居た後、男は華ロリちゃんの頭にそっと細長くて美しい手を乗せて、緩やかに撫でた。彼女は、擽ったそうな、それでいて満足げな顔で撫でられている。

 その光景を見た俺は、頭の中で、公園での男の発言を思い出した。


 ——私が『売人』……なるほど違いない


 それは、俺のを肯定などしていなかった。己が『夢売人』であることを肯定などしていなかった。

 男の言葉の裏に潜む意を今やっと汲み取った俺は、愕然とした。夢売人だと思ったから縋りつきはしたものの、夢珠師と知っていれば安易に要求などしなかった。そもそも、誰だって、まさか希少な存在である夢珠師が夜中の公園で草臥れたサラリーマンに声を掛けてくるなんて思わないだろう。しかも、そいつがめちゃくちゃに妖しい風体であればより一層信ずることなど困難である筈で——。


「だ、騙したのか!?」


「人聞きの悪いことを……君が勝手に勘違いをしたのではないですか」


「うっ」


 確かにその通りである。夢魔病のせいで意識が朦朧としていたが、男は自分の身分など名乗ってなどおらず、俺が勝手に仮定の話を進めてそのまま勝手に勘違いをしただけの話である。

 でも、まだだ。情けないと、後ろ指を指されようと、俺は最後の悪足掻きをしれっとした顔の二人に披露した。


「だ、だったら! あ、ああ、あんたが夢珠師っていう証拠はあるのか!?」


 まるで子供みたいな言い方だとは分かっていたが、俺は妙に必死だった。大金を支払えない支払いたくないのは無論、目の前の男が長年の苦しみから俺を救える存在なのかどうか——もしかしたら男の存在に一縷の希望を抱いていたからなのかもしれない。

 俺の様な人間が治してもらえる筈が無いと、疾うの昔に諦めてしまった希望。それを今再び見せつけられて、でもやっぱりまた失うのが怖くて、それなら最初から見つけ無かったことにすれば良いとそれを否定しながらも、やっぱり心のどこかでそれを求めてしまう。

 だから俺は、必死になっていた。


「夢珠師であるという証拠か……存外難しいことを言うのですね」


 俺の必死さを余所に、男は僅かに首を捻る動作をして珍しく悩む素振りを見せた。華ロリちゃんを撫でる動作を止めることはなかったが。


 ——そうだ、そんな証拠……証明なんてどうやったって出来っこ無い!


 例え男が作ったという夢珠を見せられても、一般人の俺ではその価値を正しく判断は出来ないし、仮に男が俺に夢珠を使ったとしても、それがどれほど上等なものであったとしても、男が創ったという証拠が出来なければ単なる凄腕の夢珠士であり夢珠師という証明は出来ない。

 最早それでも男の力量を測るには充分であるが、今の俺は一千万のことなど忘れて、男が夢珠師であるという証拠に対して躍起になっていた。

 男の次の言葉を待ち望む俺に対して、男はふむ、と一言溢してから、華ロリちゃんを撫でる手を一旦止め、胸ポケットからすっと一枚の紙を指で挟みながら取り出し、丁寧な言葉と共にぞんざいに俺に向かってそれを差し出した。


「こちらをどうぞ」


「あ、頂戴いたします……って名刺!?」


 目に入ったその大きさと形から、サラリーマン時代に染み付いてしまった癖により、俺は差し出されたものをつい取引先とのやり取りの如く反射的に両手で受け取ってしまったが、思ってもいなかった物の出現で、受け取った後に驚愕した。まさか、証拠と言って出されたものが名刺とは思わなかったからである。

 混乱しながらも、俺は、差し出された白いカードを凝視した。

 そこには、


——『夢珠師 トワイライト・N・ブラン』


 という文字が記されていた。細々とした文字で記されている他の情報も、テレビや雑誌で見たことがある著名な夢珠使いの国際団体の名前を始め、夢珠に関する権威であることを示す歴とした肩書きが並んでいる。隅々まで調べなければ気が済まなくなっていた俺が慌ててカードを裏返すと、


——『所長 トワイライト・N・ブラン』


 と、その付近には英語で男が医師であることを示す肩書きが添えられている。

 表裏合わせても、男が社会的にそれなりの地位を築いていることを、紙切れ一枚という今まで経験した社会人のいろはと何ら変わらない証拠で以て証明されてしまった俺は、最早それを疑うほどの気力など残っていなかった。

 つまり、俺の仮定が仮定ではなく、事実として存在することとなったのである。


「これで満足でしょうか?」


「主の名刺は貴重だからな! 大事に取っておくが良い!」


 無気力なまま白いカードを眺める俺は、最早、無機質な白銀の眼と偉そうな金色の眼を睨み返すことは出来なかった。

 ぎぃと声を上げた丸椅子。男は華ロリちゃんを抱き上げて立ち上がった。


「では、宜しいですね」


 俺に投げられた短いそれは、問い掛けではなく断定の言葉。男には、初めから俺への選択肢など用意されていなかったのである。


「此処で暮らす……知らない人間と、共同生活……?」


 ただ譫言を繰り返す俺に、男は現実世界も言葉かたなでしっかりと止めを刺した。


「いっせんま——」


「是非、お願いします!」


 俺は、男の言葉を聞く前にぎぃと軋む白いベッドの上で土下座をぶちかます——手当てされたばかりの額と鼻がじくじくと痛むが、気にしてる余裕などこの時の俺は持ち合わせてなどいなかった。

 愉快そうな歪んだ笑みを携える男と、満足気に笑う華ロリちゃんは、腹が立つほど美しかった。

 


 こうして俺は、白い妖しげな男と生意気な幼女との奇妙な共同生活を営むことになったのである——。

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